天正6年(1578年)3月13日に、越後の龍こと上杉謙信が突然亡くなったとき。
残された上杉家の人々は大いに困りました。
遠征に行く予定で進めていた準備がほぼ無駄になってしまったこともありますが、何より大きかったのが【跡継ぎ問題】です。
後継者を誰にするか決めていなかったため、上杉謙信の甥っ子・上杉景勝と、後北条家から養子に来ていた上杉景虎(北条氏康の息子)が争い、家中を二分するほどの大騒動【御館の乱】が勃発したのです。
2人は謙信の養子ですが、血の繋がりからすると『景勝一択じゃないの???』と思ってしまうかもしれません。
しかし勢力が拮抗しなければ、そもそも戦いなど起きないわけで、最初からどちらかが余裕という状況ではありません。
織田信長との戦いも続いていた大切な時期に、なぜ両者は揉めたのか?
【御館の乱】一連の流れを追ってみましょう。
※以下は上杉景勝の関連記事となります
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謙信の死後1年も内輪揉めした御館の乱
天正六年(1578年)3月13日から天正七年(1579年)3月17日まで。
【御館の乱】は謙信の死後、約一年間も続きました。
すでに武田信玄も亡くなっていて南からの脅威は薄れていたとはいえ、この時代の御家騒動は他国からつけ入れられる格好の的となります。
それでも戦わざるを得ない理由がいくつかありました。
謙信の意思が不明なことに加え、周囲の扱いからしてもどちらが後継者と言い切れない状態だったのです。
例えば、”景虎”は謙信の元服直後の名前だったため「名前を継がせたのだから、謙信は景虎を後継者にするつもりだったに違いない」という考え方ができます。
対して景勝は「御中城様」という呼び方をされていて、「上杉家御軍役帳」の一門衆筆頭に挙げられています。
このことから景虎はカタチだけの養子だけではないか?とされてきたのですが、近年、「景虎が軍役を課す立場=家督相続」だったから軍役帳に名がないのでは?という見方も浮上しています。
そもそも景虎は、継室に上杉謙信の姪である清円院(上杉景勝の姉妹)を迎えているのです。
外から支援を求めるか 内から固めるか
さらに、上杉家臣だけでなく、周辺の大名の思惑も真っ二つに分かれていました。
景虎は実家である後北条氏(父=北条氏康・兄=北条氏政)はもちろん、その同盟つながりで武田勝頼、伊達輝宗、ほか近隣の大名が味方しました。
景勝は?というと、謙信の側近中の側近だった家臣たちや、謙信の他の養子二人、そして上杉家本拠である春日山城周辺と景勝自身の地元から多くの味方を得ています。
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構図としてはこんな感じで。
・家中では景勝
・外部からは景虎
概ね、各種の思惑が次期当主をめぐって渦巻いていたのです。
条件としてはほぼ互角だったゆえに互いの主張がぶつかり、そこで先に行動を起こしたのが景勝でした。
天正六年(1578年)3月、景勝は謙信死去の報を受けるや春日山城本丸(実城)に入って景虎一派が入ってこれぬよう、防御を固めたのです。
このとき直江景綱の妻が「上杉家の家督は景勝でしょうか?」と死の直前の謙信に問いかけ、うなずいたというエピソードがありますが、景勝サイドの宣伝と見られています。
ともかく拠点を先に制した利は非常に大きかった。
景勝一派が2万7,000両ともいう軍資金や武器庫を制圧。
さらには
「遺言に基づいて春日山城に来ました! 以降、当主になりますんで、よろしく!」
という宣言を出します。こうした書状には重臣達の連署もあり、景勝が後継になることは正当なものであると念を押すカタチになりました。
なお、謙信には他にも養子がおり、その一人・上条政繁は景勝の春日山城占拠に手を貸しております。
しかし、景虎サイドがこれを承諾するはずもなく、小競り合いからやがて【御館の乱】に発展していった――そんな流れです。
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