絶対的に不利な状況の中、籠城を続けてきた鶴ヶ城(会津若松城)で、会津藩主の松平容保(かたもり)が新政府軍に降伏しました。
慶応四年(明治元年・1868年)9月22日のことです。
「会津と長州が不仲になった原因」と囁かれたりもしますが、2017年に発表された新史料により従来の定説が変わりそうな流れでもあります。
本稿・後半部にその記述も盛り込んでおりますので、最後までご覧いただければ幸いです。
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保科正之の「会津家訓十五箇条」に絶対服従
会津戦争は大河ドラマ『八重の桜』や白虎隊の各作品で何度も取り上げられており、大筋をご存知の方も多いかもしれません。
そして会津藩主・松平容保といえば、
「最後まで将軍家への忠義を通した人物」
というイメージでしょうか。
容保は初代藩主の保科正之が定めた【会津家訓十五箇条】の一つ目に徹底的に従ったとされています。
超訳するとこんな感じでしょうか。
「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず。面々決して従うべからず」
【超訳】ウチは将軍家にでっけえ恩があるんだから、どこのどいつが裏切ってもウチだけは将軍家に忠実でいなくちゃいけねえ! 従わないようなヤツはオレの子孫じゃねーし、そんな主には家臣たちも従わなくていいからな!
そんな昔の人に「オレの子孫じゃねえ」とか言われても……というのは現代の感覚。
この時代、儒教などの影響で「ご先祖様が第一」な風潮がありましたので、従わなくてはなりませんでした。
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まして、容保はよそから養子に入った人です。
「郷に入っては郷に従え」とならざるを得ません。
そうしなかったせいでお家騒動になった藩もちらほらありますし。
会津戦争の死者は埋葬するな
それにしても、従来の定説では、会津戦争降伏後の新政府軍はヒドイものでした。
「会津戦争の死者は埋葬するな!」という命令を出したというものです。
これは会津軍・新政府軍問わずだったようですが、野ざらしになった遺体は鳥や獣によって無残な姿に……。
請願書が多く寄せられたため、後に埋葬の許可が出るのですが、その理由は「疫病の原因になりかねない」というにべもないもの。
しかも藩士たちにはやらせなかった上、きちんとしたお墓を作るのではなく、罪人塚という形で誰も彼も一緒にされてしまいました。
この状況を見るに見かねた伴百悦(ばんひゃくえつ)という会津藩士が、自ら身分をやつして遺体の埋葬に当たったといいます。
彼が関わっただけでも、会津軍・新政府軍を合わせて1600人を超える遺体があったそうで。
恐らく見せしめや苦戦の鬱憤晴らしなのでしょうが、八つ当たりも甚だしいというかなんというか。
しかし、こうした定説を覆すような史料が出たとされるのが2017年のことです。
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