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【会津戦争】
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新政府は埋葬を命じていた?
以前、旧長州の山口県萩市の市長が
「もう120年経ったので、仲良くしませんか?」
と誘った際、会津若松市の市長が
「まだ120年しか経ってないので」
と断ったなんて話があります。
たしかに遺体埋葬問題について考えたら、長州藩の人が全員そうではなかったにしても、割り切れないものがありますよね。
最近では震災の復興支援や白虎隊士への献花などで、だいぶ進展しているようですが。
やられた相手が許すには、想像を絶する時間が必要なようで……と思われていたところ、2017年に新たな史料が見つかりました。
戦闘終了から間もない10月2日に、
「新政府のほうから会津戦争の戦死者を埋葬するよう命じていた」
という内容です。(→link)
一部引用させていただきます。
戊辰戦争(1868年)で戦死した会津藩士の遺体が会津藩降伏直後に埋葬されたことを示す史料が見つかったと、会津若松市史研究会副会長の野口信一さん(68)が2日、発表した。
遺体は新政府軍が埋葬を禁じ、半年間野ざらしにされたと伝えられてきた。(河北新報より引用)
こうなりますと、会津側の恨みも勘違いから生まれているわけで、これまでの定説を聞いてきた世代からすると、複雑な心境でありましょう。
ただ、全ての遺恨が一気に解決されるような内容でもなさそうです。
孝明天皇に支持されたのは会津藩
河北新報さんの記事によると「567人を64カ所に埋葬した」という記述だそうです。
しかし、これだと伴百悦の話とあまりにも数が違いすぎています。
会津戦争での会津側の死者は3000人ほどと考えられていますので、そこと比較しても少なすぎますね。合計しても数が足りません。
「記録があるから全てが正しい」ともいい切れませんし、記事に書かれていない部分にもまだまだ多くの記述があるでしょう。
敗戦側が味わう屈辱や実害は、勝者には理解できないものでもあります。
もちろん、現段階での史料から、会津側の感情が和らいでいくことが望ましいのは間違いありません。
当事者の子孫の方々にとって、前向きになれるきっかけが見つかったのは喜ばしいことですから……と思ったら、本サイト執筆者の小檜山さんが、キッチリと記事にまとめてくれておりました。
遺体埋葬問題についての詳細は、以下の記事をご覧ください。
会津戦争の遺恨『遺体埋葬論争』に終止符を~亡骸埋葬は本当に禁じられたのか
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ただし、問題は会津戦争での遺体埋葬だけに留まらないものもあります。
遡れば、孝明天皇の信頼を得て活動していた会津藩に対し、紆余曲折を経て朝敵となった長州藩という構図があり、その後の戊辰戦争(会津戦争)で長州藩が会津藩を徹底的に潰す方向へ誘導した経緯もあるわけです。
孝明天皇の生涯を知れば幕末のゴタゴタがわかる~謎に包まれた御意志
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さらには戦後、元会津藩士たちは領地替えで【斗南藩】への移住や、あるいは北海道開拓事業への従事を余儀なくされ、そこで多数の餓死者が出るほどの困窮を苦しみを強いられたりもしています。
斗南藩の生き地獄~元会津藩士が追いやられた御家復興という名の“流刑”とは
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会津と長州の話になりますと【会津戦争】ばかりがクローズアップされがちですが、現在ではあまり注目されない歴史があったことも忘れてはならない気もします。
双方の理解を得てこそ、過去の遺恨は薄らいでいくのではないでしょうか。
なお、現在会津エリアにお住まいの方より「長州に対して何も恨みなどない」という声も多々寄せられますが、あくまで歴史的経緯からの話であり、対立感情を促すものではないことをご理解いただければと存じます。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「東北戦争」
会津戦争/Wikipedia
伴百悦/Wikipedia