建久10年(1199年)3月19日は、文覚が佐渡へ流された日です。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で市川猿之助さんが演じていた、見るからに怪しげな僧侶であり、もしかしたら『三谷幸喜さんのオリキャラ?』と勘違いされたかもしれません。
文覚は実在します。
しかも、かなり事情の酷い殺人事件を犯した後に出家し、その後も独り善がりな行動から流罪に処され、伊豆で頼朝に用いられるようになります。
その後は幕府設立にも関わり、一定の権力も手中に収めながら、再び流されるという不思議な存在。
文覚とは一体何者なのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
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文覚は武士出身 俗名:遠藤盛遠
文覚は没年から逆算して、生まれは推定、保延5年(1139年)。
『鎌倉殿の13人』に登場する治承4年(1180年)においては41歳となります。
父は、摂津渡辺党の武士・遠藤茂遠(もちとお)で、文覚の俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。
幼くして両親を失い、丹波国保津荘下司・春木道善が養育したともされます。
やがて北面武士になった文覚は、当初、上西門院(鳥羽天皇の皇女・統子内親王)に仕えておりました。
上西門院は、源頼朝の生母・由良御前の親族と近しい関係にありました。
そんな彼は、17歳から19歳の頃に出家したとされます。
なぜ武士から僧侶になったのか?
理由は、人妻である袈裟御前に横恋慕し、誤って斬ってしまったためとされます。
一言でまとめると「既婚者にストーキング殺人をして出家」ということです。
ここだけ聞くと『ただの極悪犯罪者では?』とも勘繰りたくなりますが、出家に至る経緯が強烈だったため半ば伝説と化しました。
例えば昭和28年(1953年)公開の映画『地獄門』でこの物語が描かれ、第7回カンヌ国際映画祭最高賞グランプリ、第27回アカデミー賞で名誉賞と衣裳デザイン賞など、多くの賞を勝ち取っています。
なぜ文覚は愛する女性を殺してしまったのか?
袈裟御前をストーキングの挙げ句
文覚が袈裟御前を殺してしまった経緯。
『平家物語』に書かれた内容はこうなります。
袈裟御前は上西門院に仕える気品のある美女。
そんな彼女を見た北面武士・遠藤盛遠(文覚)は恋焦がれてしまう。
袈裟は、盛遠の同僚である源渡と結ばれた。
夫婦が仲睦まじくしていると、盛遠はますます彼女に思いを募らせる。袈裟が断っても気にしない。あまりにしつこい!
「私には愛する夫がいます。あなたの思いには応えられません」
そうハッキリ断られると、盛遠はますます思いを悪化させてしまう。
「なんでだよ! もういっそ、あんたのお母さんを殺して、俺も切腹するしかない!」
病的な文覚に対し、ついに袈裟はノイローゼにでもなってしまったのか。こんな提案をしてしまう。
「わかりました。夫を殺したら意に添えます」
言質を取った盛遠は、源渡の邸へ赴き、袈裟御前の指示通りに眠っている者を殺した。
やった!
そして月明かりの下で死に顔を確かめると、なんとそれは袈裟の夫ではなく、袈裟本人の首。
夫を裏切れない袈裟は、自らを犠牲にして幕引きを図ったのだった。
盛遠は袈裟の首を抱え鞍馬山を彷徨い歩き、出家する――。
とまぁ、なんとも身勝手な愚行ですよね。
いったん人物関係を整理しておきましょう。
上西門院:職場の上司
袈裟御前:同じ職場の悪質ストーカーに悩まされる悲劇の女性
源渡:袈裟御前の夫
遠藤盛遠:悪質ストーカー(文覚)
戯曲や映画では肉付けや設定変更がありますが、物語の骨子は変わりません。
既婚者に対して悪質なストーキングを繰り返し、被害者を殺した挙句、出家する――この不愉快な話から何を感じろというのか。
「愛する女性を殺してしまい苦しむ男」を描きたかった部分もあるかもしれませんが、ただただ袈裟御前が不憫でなりません。
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