特に顕著なのがロシア史ではないでしょうか。
ロシアと戦争といえば、宿願とも言える不凍港。
国土が極寒の地にあって海が凍ってしまい、一年中、船を使える港を求めて他国へ侵略を仕掛けているわけですが、では「そもそもどこの海なら凍らないのよ?その場所どこなのよ?」ってなわけです。
というわけで、本日はロシア周辺の地図をご覧頂きながら進めて参りましょう。
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国土は広くても北極圏やツンドラばかり
「おそロシア」だの「情報統制」だの「国のトップが元暗殺者」だの。
コワいものの代名詞扱いされているロシアですが、昔の人の身になって考えてみれば、哀れなお国でもあります。
国土は広くても半分近くが北極圏やツンドラで、冬になれば国外へ出ることもできない。
鉱物やガスなど資源が豊富とはいえ、価値が見出されたのは近年の話ですし、そもそもロクに輸送することもできず、モノがあるのに売りに行けないというもどかしい状態が続いていました。
技術が進み、飛行機や鉄道などの発達で輸送については解消に近づいたとはいえ、やはり時間はかかっても大量輸送に向いた船=航路=不凍港を欲しがるのは”理論としては”間違ってはいません。
だからといって北方領土は譲れませんけどね。
1853年3月28日クリミア戦争の勃発
ロシアから見た場合、不凍港を得るために直接手を出すとなると、攻めるべきところは数ヶ所に限られます。
西側のフィンランドやバルト三国など北欧方面、東のオホーツク海方面(北方領土)、そして昨今イヤな意味で話題になりがちなクリミア半島です。
カスピ海は”海”ってついてますけど湖ですからね。
ややこしい話なのでニュースを見ていてもワケワカメになりますが、昨日今日といった近年の問題ではありません。
今回は現在のクリミア問題にも繋がってくる、1853年(嘉永五年)3月28日に勃発したクリミア戦争に注目です。
ロシア帝国とオスマン帝国に挟まれて
クリミア半島は、ウクライナの南方・黒海に突き出たところです。
GoogleMap上ではクリム半島と記されますね。
ロシアから見た場合、最も近い不凍港。
当時ここは、二つの大国に挟まれた地域でした。
一つは言わずもがなロシア帝国、もう一つはオスマン帝国です。
18世紀までは拮抗した状態が続き、露土戦争(1787年〜1791年)でロシアが勝ってからは徐々に天秤が傾いていきました。
これがオスマン帝国凋落のキッカケになったともいわれています。
結果、クリミア半島はロシア帝国のものになり、勢いづいたロシア側は更なる南下を目指しました。というか、クリミア半島だけでは不凍港を手に入れたことにならないのです。
地図をご覧いただくと一目瞭然のように、クリミア半島から黒海に出たところで、その先にあるのはオスマン帝国の首都・イスタンブール。
つまり、オスマン帝国を完全にやっつけてしまわないと、ロシアの悲願は達成できません。
というわけで、ロシア帝国は「やってやんよ」とばかりに南下を進めます。
英仏サルデーニャが手を組みロシアを阻む
しかし今度は、オスマン帝国とのタイマンとはなりません。
「ロシアの南下だと!? 冗談じゃねえ!」と感じた某海賊紳士の国(英国)が音頭を取り、フランスと手を組んでオスマン帝国側に味方したのです。
後にサルデーニャ王国(イタリア統一の中心になった国)も参加しました。
結果はロシア帝国の負け。
このため南下政策の矛先を東アジアに向けることになり、中国(清)に手を出し、さらに日露戦争に絡んでくるわけです。
ロシアって防衛戦には強く、打って出ると一気に勝率が下がる印象ですよおね。まぁ防衛戦の勝ち方も焦土戦術+冬の寒さだから……。
単純に数だけで見ても4対1ですので数の暴力とも受け取れますが、ロシアにとってはもう一つ決定的な敗因がありました。
産業革命の進捗です。
産業革命といえばもちろんイギリスであり、工業力や輸送能力はもちろん、銃火器もとっくに革命済みでした。
フランスも別の革命でいろいろあったとはいえ、装備は整っていました。
オスマン帝国はまだ近代化の途中でしたのでなんともいえないところですけども。
サルデーニャ王国の装備については詳細不明ながら、イタリア統一戦争中にガリバルディが銃を集めたという記録があるので、少なくとも扱いに慣れていたことは確実でしょう。
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