曽我事件

富士野における仇討ちの場面『曽我物語図会』/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

曽我事件は鎌倉幕府の屋台骨を揺るがしかねない大騒動~仇討ちだけにあらず

曽我事件――『鎌倉殿の13人』でこの言葉が出てきたとき、違和感を覚えた方もいらっしゃったでしょう。

普通、この「曽我」と言えば「曽我兄弟の仇討ち」と表現されるところ。

それがなぜ「曽我事件」という表記なのか?

ドラマでは、曽我兄弟の思惑に北条時政岡崎義実が巻き込まれ、さらには比企能員源範頼にも話が広がり、もはや「仇討ち」という範疇には収まらない、一大事件と化しました。

実は鎌倉幕府の屋台骨を揺るがしかねなかったトラブルの発端は、建久4年(1193年)5月8日、富士の巻狩りから始まりました。

ドラマの描写も含めつつ、史実面から事件の真相を考察してみましょう。

 


北条と伊東

いったい曽我兄弟の仇討ちとはどんな事件なのか?

現在までに広まっている話は以下の記事にまとまっていますが、

曾我兄弟の仇討ち
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一行で説明させていただくと

曽我兄弟が父の仇討ちとして工藤祐経を討つ

というものです。

事件の関係者からすると、一見、

◆曽我家vs工藤家

という構造に見えるかもしれません。

しかし、事態はもっと複雑で、実はその先に

◆伊東家と北条家

が深く絡んでいました。

どういうことか?

伊東家といえば八重でしょう。

源頼朝と結ばれながら、父・伊東祐親の命により二人の息子・千鶴丸が殺され、ついには滅亡してしまった伊東家。

一方で、北条家は、政子が源頼朝と結ばれ、鎌倉幕府において大成功をおさめている。

伊東と北条、一体どこで差がついたのか?

よく、そんな問いかけが見られますが、ドラマ『鎌倉殿の13人』では、伊東家に別ルートが用意されています。

八重が北条義時と結ばれ、金剛こと北条泰時が生まれるのです。

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逆に、頼朝と政子の子は全員が天寿を全うできず、源氏将軍はわずか三代で断絶してしまっている。

その跡を継ぐかのようにして、八重と義時の子である泰時が鎌倉幕府を安定させ、後の北条体制を築きました。

伊東家の母を持つ北条泰時。

北条家の母を持つ源頼家

【曽我事件】の第23回から本役の坂口健太郎さん(泰時)と金子大地さん(頼家)が登場しました。

では、この二人を対比させるドラマの意図とは?

 


伊東祐親と工藤祐経の因縁

一般的には仇討ちで知られる曽我兄弟。

親の仇と言うけれど、彼らのターゲットとなった工藤祐経は、無能であっても悪人には思えません。

実際、坂東武者たちから工藤祐経は「京都のことに通じているだけで鎌倉殿に取り入った腰抜けだ」とみなされていました。

なぜ、そのような評価なのか?

大事なところですので、少し丁寧に説明させていただきます。

かつて伊豆に工藤祐隆という武士がいました。

彼は男子がみな早世してしまい、後妻の連れ子を嫡子とし、伊東祐継としました。

実はこの祐継、工藤祐隆の隠し子であったともされますが、この裁定に納得できない者がいます。

河津次郎祐親(こと後の伊東祐親)です。

伊東祐親
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河津次郎祐親(伊東祐親)は、早世した工藤祐隆の嫡男の子供、つまりは工藤祐隆の嫡孫となります。

この祐親からすると、突然現れ、所領を継いだ叔父の伊東祐継が、祖父・祐隆の隠し子であるとは思えない。

なぜ、そんな、祖父の血も引いていない祐継に所領が渡ってしまうのか。

祐親はさっぱり納得できない。

しかし、事態は急変。

祐継が43で亡くなってしまうのです。そこで手早く段取りを進めたのが河津祐親でした。

祐親は、祐継の子である工藤祐経の後見役となり、娘の万劫(まんごう・八重の姉で政子や義時のおば)を娶らせます。いったん自身の婿としたんですね。

そして祐経が14歳になると共に上洛して、平重盛に引き合わせ、自分だけ伊豆へ帰郷。

すぐさま長男・祐泰に河津荘を譲り、自分は伊東に戻った……つまり祐親は、河津と伊東をどちらも手にしたのです。

祐経は都で暮らし、さまざまな教養を身につけます。そして気づきました。

自分はまんまと河津祐親こと伊東祐親に所領を奪われた!

祐経は訴訟を起こすものの、事前に祐親が根回しをしていたのか、その訴えは一向に通りません。

伊豆に戻った祐経を、さらなる悲劇が襲います。

祐親は危険を察知したのか。娘と祐経を離縁させ、土肥実平の嫡子・遠平と再婚させてしまうのです。

おのれ、伊東祐親! 所領も妻も奪いおって!

そんな怒りと悲しみを募らせた工藤祐経の姿が描かれたのが『鎌倉殿の13人』第1回。

祐経を演じる我が家の坪倉由幸さんが、なぜ、あんな態度だったのか?

伊東祐親とのトラブルを考えると無理もないことがわかりますよね。

実はこの放送回には、山口祥行さんが演じる曽我兄弟の父・河津祐泰(伊東祐親の長男)も登場していました。

河津祐泰は曽我兄弟の父ということもあってか、フィクションでは七尺を超える武勇に長けた偉丈夫として描かれます。

第1回放送の時点で、工藤祐経は恨みを晴らすため、北条時政を頼りにしました。

しかし、その相手・伊東祐親は時政にとっては舅です。

マトモに相手にされるわけもなく適当にあしらわれると、万策尽きた工藤祐経は、祐親暗殺を狙って弓矢を放ちます。

と、これが、逸れてしまい、河津祐泰に命中して死亡。

かくして祐経を狙いとする曽我兄弟の仇討ちは始まるのですが……やはり違和感ありません?

工藤祐経ばかりが悪いのでしょうか?

姑息な手段で年下の祐経から所領を奪い、妻と引き裂き、訴訟にまで手回しした伊東祐親も中々の悪では?

一番の問題は、アヤフヤな相続を推し進めた工藤祐隆かもしれませんが、ともかく『鎌倉殿の13人』劇中での工藤祐経は能力は低くとも憎めない人物造形です。

それは「冷静に考えると祐経はそこまで悪党ではないのでは?」という意識が反映されているからかもしれません。

 


曽我兄弟と北条家の関係

『鎌倉殿の13人』では、北条義時はじめ北条家の面々は、曽我兄弟に対してあまり興味を持っていないように見えます。

ドラマの序盤で、工藤祐経がぬけぬけと義時と八重の元へやってきて、仕事をくれと口利きを頼む場面がありました。

ここで幼い十郎と五郎兄弟が、父の仇である祐経に石をぶつけます。

八重も、兄(河津祐泰)を殺した祐経に対して憤然としていましたが、義時はその理由を知りません。

ドラマでは義時がこのあと兄弟の因縁を知ったということなのでしょう。

時政が曽我兄弟の弟・五郎の烏帽子親になったことは史実です。

それにしても兄弟の名前はややこしいものがあって、兄が十郎、弟が五郎というのは不思議だと思いませんか?

義時のことを思い出してみましょう。彼は小四郎です。

「四郎の次の息子だと思って面倒みてやるからよ」

そんな風に時政が気前よく曽我兄弟・五郎の烏帽子親になったことは推察できます。

なんせ五郎は、時政の偏諱を賜って「時致」と名乗ったほどです。

盛大な酒宴を開き、にぎにぎしく祝ったとかで、このときは義時も深く関わっていて、弟のように思っていてもおかしくはない。

曽我兄弟は、義時から見て従弟にあたります。義時の母もまた、伊東祐親の娘ですので、なんともややこしい……ドラマでは実衣が「遠い親戚」とまとめておりますが、説明が困難なのであれはありでしょう。

伊東祐親には娘が多くおり、他にも坂東武者たちに嫁がせていました。

三浦義澄の妻で、義村の母

・土肥遠平(実平の嫡子)の妻

つまり曽我兄弟には多くの有力御家人と繋がりがあり、女性の味方もいました。

そんな兄弟が事件を起こす……ゆえに単に仇討ちでは済まない激震が鎌倉に走るのです。

 

万寿が将軍になる道を示す

『鎌倉殿の13人』の劇中では、【曽我事件】前夜は、何やら不穏な雰囲気が漂っています。

義仲は倒した。平家は滅んだ。義経は死に、奥州藤原氏も討った。日本一の大天狗こと後白河院も世を去った。

それなのに不穏……ということを描くため、史実を簡略化しつつ、怪しげな動きをする御家人たちの描写をしていました。

頼朝もそれを理解しているからこそ、狩りを企画したとも言えます。

狩りとなれば、武装した上で所領を見て回れる。

嫡子・万寿の成長を御家人たちに見せつけつつ、引き締めにかかる。そんな意図が重なった大規模な狩りでした。

この狩りで万寿が獲物の鹿を仕留めたことを喜んだ頼朝に対し、政子は冷淡そのものでした。

「武家の嫡子が野山で獲物を仕留めるなんて当たり前のことですよ。珍しくもありません」

そんな風に素っ気ない態度をとったとされます。

このエピソードは――頼朝は親馬鹿で政子は冷静で賢い――という評価が与えられがちですが、政子に意味が通じなかった可能性はあります。

実は「鹿を狩る」ということには特別な意味があるのです。

中原に鹿を逐(お)う。

魏徴(ぎちょう)「述懐」

唐太宗に仕えた政治家・魏徴の言葉です。

中原とは中国の黄河中下流域をさし、多くの王朝で首都が置かれました。

要するに「そんな中心部で鹿狩りをすること」を「天下取り」に例えたのです。

魏徴の功績は『貞観政要』により、日本でも広く伝えられてきましたので、頼朝はそんな言葉を思い出しつつ、その象徴性を喜んだのに、政子には通じなかったのかもしれません。

貞観政要
『光る君へ』で一条天皇も愛読の『貞観政要』は泰時も家康も参考にした政治指南書

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この狩猟は、神聖なる行事として演出されていました。

我が子を鎌倉殿後継者としたことができたと喜ぶ父・頼朝。

その象徴性が理解できない母・政子。

価値観や教養の差がそこにはあるのです。

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