史実ではどうなってる?
大河ドラマ『どうする家康』に登場した松平昌久(まさひさ)が、謎多き武将として話題になりました。
東京03角田晃広さんが演じる武将で、家康の命を狙い、寺を取り囲むほど。
よく見りゃ、家康とは同じ松平だし、親戚関係にある一族ならば、なぜ二人は協力し合わないのか?
永禄7年(1564年)2月28日は三河一向一揆が平定された日。
この一揆とも関係が深い松平昌久の生涯と「三河松平氏」の事績を振り返ってみましょう。
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なぜ松平昌久は家康を憎むのか
松平氏というのは非常にややこしい。
なぜなら十四あるいは十八もの松平氏が存在していたとされ、徳川関連の書籍を開いても複数の家が出てくるため、混乱しがちです。
ただし、次の前提を知っておけば、意外とスッキリするかもしれません。
一口に松平氏と言っても、捉え方は二つあり、
・家康の祖父である松平清康の代までの諸流
と
・江戸幕府以降の各松平氏
という特徴がありました。
ざっくばらんに前者を「十四松平」、後者を「十八松平」で捉えておくのがよいかもしれません。
要は、江戸時代の前後で、流れが大きく変わるんですね。
本稿の主人公である松平昌久は前者「十四松平」の一つであり、大河ドラマ『どうする家康』では桶狭間の戦いに参戦、敗走していた徳川家康の前に立ちはだかります。
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彼らは同じ三河松平氏という立場のはず。
なのになぜ争うのか?
そもそも、なぜ家康のほうが偉そうに見えるのか?
答えは「家康が嫡流だからでしょ」と言いたいところですが、実は当時はそうではありません。
大出世を果たして征夷大将軍になったため、後に系図が作り替えられただけのこと。
家康の出身である安祥松平氏は三河松平氏の庶流であり、【応仁の乱】辺りから力を持ち始めました。
一方、松平昌久は大草松平氏といい、元々は岡崎城を拠点としていました。
その岡崎城を家康の祖父である松平清康が奪い取ったのです。
大河ドラマで東京03角田晃広さん演じる松平昌久が、あれほど恨みを抱いていたのも、仕方ない事情があったんですね。
では、大草松平氏や安祥松平氏の大元である三河松平氏とはどんな一族だったのか?
そもそも、いつから存在していたのか?
親氏から始まった三河松平氏
ときは後宇多天皇(在位1274ー1287年)の時代。
現在の愛知県豊田市松平町に、在原信盛が居を構えました。
信盛は、松の木が生い茂る様をみて「松平」と名付けた、ゆえに同地域は松平郷と呼ばれるようになった……なんて話がありますが、おそらく後世の創作であり、松平氏の祖先は他にも紀伊国熊野出身の鈴木氏だとする説もあります。
要するにハッキリしません。
いずれにせよ、松平の地でしっかりと暮らし始めた人物は、松平信重であるとされています。
この信重の代から松平郷の開発が進むのですが、そんなあるとき、徳阿弥という遊行僧が逗留しました。
関東の武士出身であり、鎌倉公方に敗れて出家していたのです。
信重は、この徳阿弥を只者ではないと見抜き、還俗させると娘を娶せ、当主に迎えました。連歌会で素晴らしい歌を詠み、そこを見込まれたという伝説もあるとか。
そして名乗ったのが松平親氏(ちかうじ)――松平氏の祖先とされる人物ですが、哀しいことにこの徳阿弥のエピソードもまた後世の作り話と考えられていて、史実における詳細は不明です。
結局のところ、松平氏の祖である松平親氏の正体はあやふや。
武家の頂点に立つ者としては残念なルーツですが、こればかりは仕方のない話でしょう。
ともかく、昌久の大草松平氏も、家康の安祥松平氏も、この親氏から始まっているとされ、その後の系図はざっと以下の通りです。
【大草松平氏】
松平親氏
│
松平泰親
│
松平信光
│
松平光重(ここから大草松平氏)
松平光重から数えて松平昌久が4代目。
一方、徳川家康の安祥三河氏は?
【安祥松平氏】
松平親氏
│
松平泰親
│
松平信光
│
松平親忠(ここから安祥松平氏)
こちらは松平親忠から家康で9代目。
大草松平氏も、安祥松平氏も、そもそもは松平信光の子供の代から始まったものですが、信光の嫡子は松平親長であり、こちらが三河松平氏の宗家だったんですね。
では、なぜ安祥松平氏が力を持ち、大草松平氏が恨みを持つに至ったか?
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