小山田信茂

絵・小久ヒロ

武田・上杉家

武田で最も卑劣な裏切者とされる戦国武将・小山田信茂~主君を欺き迎えた最悪の結末

1582年4月16日(天正10年3月24日)は小山田信茂の命日です。

甲斐武田の有力家臣でありながら、最悪な流れで主君の武田勝頼を裏切ったことで知られるこの信茂。

2016年大河ドラマ『真田丸』では温水洋一さんが演じた人物ですが、史実に目を向ければ、なにも信茂一人が勝頼を裏切ったわけではなく、穴山信君や曽根昌世、木曽義昌らも武田を見限っています。

なのになぜ信茂が武田家臣の中でも随一の汚名を残すことになったのか。

その生涯を振り返ってみましょう。

 


小山田一族とは

小田山信茂を輩出した小山田氏は関東八平氏の出とされます。

武蔵国多摩郡小山田庄を支配したことから始まる一族との見方で、甲斐武田氏の10代・信満の時代には甲斐国都留郡の豪族として史料に登場。

その名が高まるのは、武田信虎の妹を娶った小山田信有の時代でした。

小山田信茂の父である小山田信有/wikipediaより引用

信有とは、小山田信茂の父親のことで、2007年の大河ドラマ『風林火山』では田辺誠一さんが演じていましたね。

この信有が、ドラマの中ではなかなか大胆な描かれ方でして、敵であった笠原清繁の妻・美瑠姫を娶り、その妻に仇として殺されてしまいます。

なぜ、そのような描写となったのか。

背景には、信有が笠原清繁未亡人を妻としたとする説がありますが、それに加えて信茂に付き纏う“卑劣な裏切り者”というマイナスイメージも働いていたのかもしれません。

小山田信茂、当人の生まれた年は天文8年(1539年)あるいは天文9年(1540年)とされているのですが、家族関係については少々困ったことがあります。

「信有」という名前が多すぎるのです。

一体どういうことか?というと、まず信茂は、父・小山田信有の次男とされ、母は不詳で、幼名は藤乙丸でした。

そして信茂の兄も“信有”という名前。

弥三郎信有と言い、生まれ順も曖昧で、状況からすると異母兄弟のようではある。

そして、さらにややこしいことに祖父まで信有を名乗っているのです。

祖父:小山田信有(涼苑)

父:小山田信有(契山)

兄:小山田弥三郎信有(桃隠)

本人:小山田信茂

名前が同じだったせいか、父の信有と兄の信有は、かつて同一人物と考えられていました。

この状況では仕方ないですよね。

あるいは兄の信有と弟の信茂が同一人物と混同されたり、父と同名である信有が信茂に改名したと考えられていた時期も……。

祖父の信有 (涼苑)は、信玄の母である大井の方の妹を妻にしたという説もあり、それが事実なら信玄や勝頼とは親族になります。

大井の方(武田信虎正室)/wikipediaより引用

あまりにややこしい名前のせいか、『甲陽軍鑑』などの史料でも混同が起き、しばしば誤記が指摘されるほど。

いずれにせよ永禄8年(1565年)、兄の弥三郎信有が亡くなり、家督は信茂が継ぎました。

 


「武田二十四将」として活躍する

家督を相続した小山田信茂は、後に「武田二十四将」の一人に数えられる武田の有力武将として、その名を知られてゆきます。

弓が得意で能筆。

文武両道の人物として名高かったのです。

酷い裏切り者のイメージから悪名が先行しますが、当時は錚々たる人物として知られていたのでした。

合戦のみならず、外交でもその名が頻出するのは、その証拠でもありましょう。

信玄亡き後、上杉景勝菊姫の婚礼が持ち上がったときも、信茂が交渉にあたったとされ、他に以下のような実績があったと考えられます。

・【川中島の戦い】など上杉謙信との抗争

・同盟破棄による駿河国今川領への侵攻

・同盟破棄による北条氏との抗争

・台頭する織田信長との抗争

・【三方ヶ原の戦い】など徳川家康との抗争

・【甲越同盟(武田と上杉)】の締結

確かに武田信玄は破竹の勢いで信濃ばかりか西上野や駿河などの制圧に成功しました。

しかし、そうした拡大路線は、信玄時代から既に綻びが見えかけてもいました。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

上杉との攻防が落ち着いても、駿河攻略によって北条と対立するばかりか、織田徳川との衝突は激化していくばかり。

そんな状況の中で、嫡男だった武田義信を病死で失っただけでなく、次世代の支配体制が不安定なまま四男の勝頼が跡継ぎとされ、そして信玄自身が元亀4年(1573年)に死去してしまいます。

信玄の認識ですら、勝頼は後継者ではなく、あくまで中継ぎ。

そんなあやふやな立場では、誰が当主でも拡大しきった武田家の運営をしていくのは至難の業でしょう。

最前線で外交を担っていた信茂がその危機を察知できないはずもなく……「裏切り」の文字は、信玄の死後から浮かび始めていたのかもしれません。

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