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【小山田信茂】
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上杉か北条か 勝頼、痛恨の判断ミス
武田信玄という巨星が墜ちると、にわかに周辺は騒がしくなります。
元亀4年(1573年)、織田徳川の連合軍はさっそく長篠城攻めに着手。
このとき小山田信茂は武田信豊(武田信繁の子)や馬場信春と共に、その守備に入ったとされます。

馬場信春(教来石景政)/wikipediaより引用
しかし、地元国衆などの離反もあって長篠城が奪われると、敵は勢いを増してゆくばかり。
むろん勝頼も簡単には引かず、「失地回復」とばかりに再び大軍で長篠城を囲むのですが、徳川方の城主・奥平信昌や足軽・鳥居強右衛門の働きもあって城はなんとか持ちこたえ続けます。
そして形勢は逆転します。
天正3年(1575年)5月21日、まるで罠にハメられたかのように武田軍は設楽ヶ原へなだれ込み、結果、壮絶な大敗を喫したのです(長篠の戦い)。
このとき信茂は、勝頼の警護担当でした。
主君と共に命からがら帰路につくも、戦場では武田四天王に数えられる山県昌景と馬場信春、内藤昌秀をはじめ、真田の跡取りだった真田信綱や真田昌輝など、名だたる武将が討死しています
悪いことは重なるものでしょうか。
隣国の上杉でも、武田家に影響の大きな転機を迎えていました。
天正6年(1578年)3月、上杉謙信の後継者をめぐり、上杉景勝と上杉景虎の間で【御館の乱】が発生したのです。

上杉景勝/wikipediaより引用
謙信の甥である景勝に対し、北条から養子に出されていた氏康の息子・景虎。
北条と関係のあった武田は景虎への味方を要請されるも、勝頼は両者の調停に取り掛かり、最終的には景勝側につきます。
そして景虎が敗北すると、景勝と勝頼は【甲越同盟】を締結。
信茂もこの調停交渉に関わりました。
しかし、景勝に味方するということは、北条を完全に敵に回すということでもあるわけで……武田は織田・徳川・北条の強国を同時に相手にしなければならなくなったのです。
なお、1年にも及ぶ景勝vs景虎の内戦で、越後の上杉軍は著しく疲弊しており、同盟による軍事メリットは非情なまでに薄れているのでした。
高天神城の陥落で崩壊秒読み
天正9年(1581年)3月、徳川軍の猛攻より、武田方の高天神城が落とされました。
籠城する味方を助けに行けない勝頼に対し、家臣団や国衆たちの信頼関係は完全に崩れ――そんな状況を見計らったかのように織田徳川連合軍の攻勢は本格化してきます。
小山田信茂ばかりが裏切り者と罵られますが、すでに武田軍全体で心は散り散りになっていたのです。
それゆえ追い詰められた勝頼が、新府城への本拠地移転を実行したところで、時すでに遅し。
むしろ不満を高めた木曽義昌が表立って離反をすると、

木曽義昌/wikipediaより引用
勝頼はその妻子を処刑。
さらに軍を動かしたところで、天正10年(1582年)2月、織田徳川による甲州征伐が始まりました。
いざ攻め込まれると脆いもので、武田軍は次々に白旗を挙げてゆきます。
仁科盛信のように徹底抗戦する強者は例外で、残された道は「籠城か? 退避か?」と、悩める勝頼に対し、信濃の国衆・真田昌幸は提案します。
「上野岩櫃城まで撤退なされよ! そこで立て直し、再起を図るのです!」
「いやいや、それならば、わが都留にある岩殿城へおいでくだされ」

岩殿城があった岩殿山の稚児落とし
結果、勝頼は、小山田信茂の提案を受け入れ、出発しました。
岩殿城を目指す一行からは、次から次へと脱落者が出ます。勝頼の母方の祖母すらいつの間にか姿が見えなくなり、家臣たちもついてくる者はわずかばかり、暗い道のりが続きます。
そして笹子峠にさしかかった勝頼一行は、裏切りに気付きます。
信茂は迎えに来ないどころか、笹子峠の虎口から鉄砲を撃ちかけてきたのです。
もはやこれまで――。
【天目山の戦い】で、勝頼とその妻子は命を散らしました。

武田勝頼/wikipediaより引用
一族郎党七十余名が首を刎ねられ
主君の命を手土産に、小山田信茂は織田家へ仕官しようと、信長の嫡男・信忠のもとへ出向きました。
しかし、そこに待っていたのは酷い仕打ちでした。
善光寺にて、一族郎党七十余名が首を刎ねられたのです。
主君を裏切る者を織田家は必要としませんでした。
小山田信茂、享年44。
その智勇にもかかわらず、あまりに酷い裏切りのため、小山田一族は悪名と共に記憶されました。
しかし、一族が完全に滅びたわけではありません。
子孫を名乗る者が八戸藩士にいたとされます。
小山田一族の中にも、生き延びた人物はいました。
大河ドラマ『真田丸』で、笹子峠で勝頼を追い返し、泣き崩れた小山田一族の一人に小山田茂誠(しげまさ)がいます。
茂誠は処刑を免れ、落武者姿で真田一族の前に姿を見せたのでした。
茂誠は真田昌幸の娘である村松殿の婿にあたり、真田家に仕え、家老となりました。

真田昌幸/wikipediaより引用
『真田丸』では高木渉さんが演じ、人気を博していましたね。
彼は裏切り者ではなく、誠意あふれる小山田一族の一員として視聴者と歴史ファンの記憶に残ったのです。
『信長の野望・創造 戦国立志伝』において妻・村松殿とともに配信され、以降のシリーズでその名は定着したのでした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『武田氏家臣団人名事典』(→amazon)
高野賢彦『甲州・武田一族衰亡史』(→amazon)
他