1609年7月4日(慶長14年6月3日)は伊豆の戦国武将・板部岡江雪斎の命日です。
一見かなり難しい名前ですが、実は漢字をそのまま「いたべおか こうせつさい」と読む、意外に単純なパターン。
生まれたときは「田中」という、今度は逆に最もシンプルな名字でした。
その後、何度か名前を変え、板部岡江雪斎に落ち着くのは天正十二年(1584年)以降のことであり、世間では、いよいよ豊臣秀吉の天下が固まっていく最中のことです。
江雪斎にとっては、生涯の中でも最も緊張を強いられる場面だったでしょう。
なぜなら北条氏で「外交」という重要な役割を担っていたからであり、それを任せられる江雪斎とは一体何者だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
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出家した後に後北条氏へ
板部岡江雪斎は天文五年(1513年)、伊豆田方郡田中郷の領主・田中泰行の子として生まれたとされます。
泰行は伊勢宗瑞(=北条早雲)が挙兵した頃の家臣の一人とされています。
順当に行けば江雪斎も田中姓を名乗っていたことでしょう。

北条早雲(伊勢宗瑞)/wikipediaより引用
しかし何らかの理由で田中氏は断絶してしまい、江雪斎は出家して真言宗の僧侶となりました。
時は流れ、永禄年間(1558~1570年)――四代北条氏政の命令により、書の腕前を見込まれて右筆となりました。
主君に代わって書状などを代書するのが右筆であり、当時の戦国大名には欠かせない存在ですね。
他には寺社の管理も任され、元亀二年(1571年)には鶴岡八幡宮で北条氏康の病気平癒祈願をしたこともありました。
この頃は「江雪斎融成」と名乗っていたようです。

北条氏康/wikipediaより引用
後北条氏の外交官
当時の僧侶は知識人の代表格です。
それゆえ戦国大名には知恵袋として欠かせない存在であり、現代でいうところの政務官や外交官のような役目を果たすことがありました。
板部岡江雪斎も、北条氏からの使者として甲斐へ赴いたことがあります。
例えば、天正元年(1573年)には武田信玄の病気見舞いに行ったり、

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
北条氏と武田氏の同盟が決裂した後は織田氏との同盟締結に向かったり。
天文五年(1513年)生まれですと還暦を超えていますので、生まれつき心身共に相当壮健だったのでしょう。
天正十年(1582年)6月に【本能寺の変】が起きた後は、徳川家康と五代北条氏直が信濃を巡って争うことになり、このとき江雪斎は和睦派として立ち働きました。
そして徳川家康の次女・督姫を氏直の正室に迎えることで和睦を結び、事態を収束させることに成功しています。
となると、軍師的な役割もやってたのかな?
隣国駿河の今川義元と太原雪斎のような関係性が頭に浮かんできますが、江雪斎は一貫して
「外交官の役割のみ」
を務めています。
主君による命令なのか。
本人の意志によるものなのか。
詳細は不明ですが、その後も江雪斎はほとんど戦場には関わってきません。
長男と次男も太田氏房に仕え
徳川との和睦が結ばれた後、板部岡江雪斎は岩槻城(さいたま市岩槻区)に移りました。
北条氏政・三男の太田氏房を補佐するためです。
実は岩槻城は、北条氏にとって北関東方面では最前線の一つだった重要な拠点です。

岩槻城(別名白鶴城)の碑
氏房は天正九年(1581年)に元服したばかりの若者であり、まだ経験も浅かったため、統治方面の補佐として江雪斎がつけられたでしょう。
江雪斎の結婚の時期や妻の出自については判然としていません。
この岩槻城時代がきっかけとなったのか、江雪斎の長男・岡野房恒と次男・岡野房次が、後に氏房の家臣となっています。
それも全ては江雪斎と氏房の関係が良好だったからこそでしょう。
その人柄は『北条五代記』で絶賛されているのです。
一体どんな風に描かれているのか?
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