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【板部岡江雪斎】
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信頼される人柄
『北条五代記』における板部岡江雪斎の人となりとは以下の通り。
「宏才弁舌人に優れ、その上仁義の道ありて、文武に達せし人」
「文武両道で仁義もわきまえていて、弁舌の才能にも恵まれている」とは一体何事でしょう。
さすがに褒め殺しでは……と思いきや、和睦を成功させたり、主筋の若者をサポートするなど、日頃の行いが高く評価されていた可能性は十分にありますね。
江雪斎は真面目なだけでなく、芸達者な人でもあったそうで、特に「能」が得意だったとか。
たびたび能の『定家』を演じたとされ、時には五代北条氏直からリクエストもされたようで、北条ではその名演を見知っている者も多かったのでしょう。
ちなみに『定家』とは、平安時代末期の皇女・式子内親王のお話です。
式子内親王と『小倉百人一首』の選者などで知られる藤原定家の間に恋愛関係があったという伝説をモチーフにした作品でして……。
あるとき式子内親王の墓の前を旅の僧侶が通りかかった。
おそこで彼女の霊が「定家の無念が”定家葛”となって自分の墓に巻き付いているのでなんとかしてほしい」と頼むと、僧侶が法華経を読んで内親王を解放する。
内親王は僧侶に礼の舞を披露した後、自らの醜さを恥じて再び墓に戻っていく。
最後に内親王が墓に戻ったのは「愛欲ゆえ」とされているのですが……うーん、なんだか内親王に失礼な話じゃありません?

式子内親王/wikipediaより引用
それに人柄が絶賛される江雪斎が演じるのにあまり相応しくないような……まぁ、今と昔では感覚が違うんでしょうけど。
小田原征伐
話を板部岡江雪斎の事績に戻しましょう。
そもそも織田信長が本能寺の変で敗死すると、織田軍が支配したばかりだった旧武田家の領地が一気に荒れました。
上杉、徳川、真田そして北条たちが牽制しながら奪い合いを始めたのです。
ここで最も小勢力だった真田昌幸が手を変え品を変え、まさに【表裏比興の者】として大活躍だったのは『真田丸』などでもお馴染みですね。
問題はその後。
秀吉との直接対決(賤ヶ岳の戦い)で事実上の負けとなった家康は、豊臣政権下に入り、そして秀吉と北条家を取り次ぐ役割を担ったのです。
北条家ぐらいの規模でしたら、秀吉と直接やり取りしておけば良かったのでしょう。
家康を通じて「ワシに従え、上洛しろ」と秀吉に言われても、そうそう深刻には重く受け止められていません。
一方、危機感を抱いたのが板部岡江雪斎や北条氏規(北条氏康の四男)でした。
彼らは豊臣政権との関係修復に努め、江雪斎は上洛までして、秀吉に咎められていた沼田問題について弁解します。
そして、なぜかこのとき秀吉に気に入られ、手ずからお茶を点ててもらったのだとか。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
自分で作品を作るのが好きなほど「能」にハマっている秀吉と気が合ったんですかね。
まあ、それと北条氏の去就は全くの別問題でして……。
江雪斎も、秀吉に対してひたすらゴマをすっていたわけでもないようで、秀吉の勘気を受けて小田原へやってきていた茶人・山上宗二と懇意にしていたといいます。
後に彼が茶道具について記した『山上宗二記』(やまのうえのそうじき)の写本を譲り受けたとされ、宗二から見た江雪斎は知識や茶の腕前だけでなく、信頼に足る人物と思われていたのでしょう。
しかしです。結果は皆さんご存知の通り。
天正十八年(1590年)、小田原城は陥落しました。
秀吉らの前に引き出された板部岡江雪斎は潔く述べます。
「100日以上籠城したことで面目を施しましたので、この上、申し上げることは何もございません。どうぞ首を刎ねてください」
人間というのは本当に不思議なもんで、「本気で腹を括る人の姿」というのは、敵の心も動かすのでしょう。
江雪斎の潔さ良さ、見事なり――と秀吉に気に入られて赦免されると、以降は御伽衆(話し相手)として豊臣家の家臣となるのです。
このとき姓を「岡」もしくは「岡野」と改めたとされます。
ところが、豊臣に仕えていた時間は長くはなかったようです。
その後
天正十九年(1591年)になると、まず息子たちが徳川に仕えました。
そして慶長五年(1600年)頃からは板部岡江雪斎も家康に仕えるようになります。
関ヶ原の戦い当日に小早川秀秋の説得にあたったのが板部岡江雪斎だった――そんな話もありますが、近年は「秀秋は最初から東軍方だった」という見方も有力ですので、何が事実かどうかは残念ながら不明。

小早川秀秋/wikipediaより引用
仮に江雪斎が小早川秀秋を説得していたとしても、関ヶ原当日ではなく、それより前のことですよね。
実はこのあたりから、江雪斎はあまり歴史の表舞台に出てくることはなくなります。
単純に老齢だったからでしょう。
冒頭で触れた通り天文五年(1513年)生まれであれば、関ヶ原の時点で既に87歳。
やはり生来剛健だったのか、あるいは本人の養生なのか不明ですが、江雪斎が亡くなるのはまだ後のこと、実に慶長14年6月3日(1609年7月4日)のことでした。
彼の子孫は旗本として存続し、後年には江戸幕府十一代将軍・徳川家斉時代の老中である水野忠成を輩出しています。
姓が異なるのは、岡野家から水野家へ養子に入ったからです。
時代がかなり離れていますし、あまり共通点はないのですが……。
板部岡江雪斎――今川家の太原雪斎や、毛利家の安国寺恵瓊らと比較すると、武家としてはかなり成功した生き方を遂げてますね。
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長月 七紀・記
【TOPイラスト】
小久ヒロ
【参考】
黒田基樹『戦国北条家一族事典(戎光祥出版)』(→amazon)
黒田基樹『北条氏康の家臣団 (歴史新書y)』(→amazon)
日本人名大辞典
ほか