永禄12年10月6日(1569年11月14日)は三増峠の戦いが勃発した日。
武田信玄が北条氏康の息子たち(北条氏照や北条氏邦)を徹底的に打ちのめした合戦として戦国ファンには知られるが、一方でスルーされがちなのが合戦の直前に起こっていた重大な出来事である。
実はこのとき武田軍は、北条氏の本拠地である小田原城を包囲していた。
難攻不落の堅城としてお馴染みの小田原城。
永禄4年(1561年)には上杉謙信が包囲したこともあるが、このときの謙信はあっさり見切りをつけて鶴岡八幡宮へ出向き、山内上杉氏の名跡と関東管領職を受け継いでいる。
一方、信玄はなぜ小田原城を包囲したのか?
逆に、囲まれていた北条氏康や北条氏政はその状況をどう捉えていたのか?
関東や信越地方における緊張感がギリギリまで高まっていた、当時を振り返ってみよう。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
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武田と北条の同盟決裂
そもそも武田と北条はなぜ戦うことになったのか?
武田と北条と言えば、今川も含めて三国間で結ばれた「甲相駿三国同盟」で知られるが、桶狭間の戦いで今川義元が討死したため状況は一変。
その後、今川家をまとめていた寿桂尼が永禄11年3月14日に亡くなると、跡を継いだ今川氏真では心もとなく、永禄11年(1568年)12月、武田軍が駿河へ、徳川軍が遠江へ同時に攻め込んだ。
これに激怒したのが北条氏康だ。

北条氏康/wikipediaより引用
氏康はかつて、三国同盟維持のため信玄からの依頼で氏真に起請文を書かせたり、嶺松院(故・武田義信の妻で今川義元の娘)の駿河帰国を斡旋した経緯がある。
信玄の駿河侵攻によってその面目は丸潰れにされ、しかも今川氏真に嫁いでいた娘の早川殿が乗り物もなく城を追い出され、危険な目に遭わされたことが許せなかった。
そこで永禄11年12月、氏康は北条氏政に出陣させる。
むろん武田軍の駿河侵攻を止めるためであり、氏政はまず武田軍の補給路を断つことに成功。
北条はこの間に、自軍の宿敵でもあった上杉との同盟締結へ乗り出す。信玄を討つためであり、そこまで本気だったのだろう。
一方の信玄は、徳川との連携もうまくいかなくなり……いよいよ窮地に陥ったが、翌年永禄12年4月、駿府からの徹底を決め、どうにか甲府へ戻ることに成功した。
生誕時や上田原の戦い、あるいは第四次川中島の戦いなど――信玄には、命に関わるピンチが幾度かあったと考えられるが、このときの危機も同様だったであろう。
しかも、北条からの攻撃はこれでは止まなかった。
越相同盟の成立で武田は窮地と思いきや
永禄12年5月、今川氏真と北条氏政、さらには徳川家康の間で和睦が成立すると、氏真は掛川城を出て北条を頼り、戦国大名としての今川家は滅亡。
さらにその翌月には北条と上杉による越相同盟が成立し、いよいよ武田はピンチに陥る。
北には上杉、南東には北条、南西には徳川と、敵だらけの状況。
駿河を巡る武田軍と北条軍の戦いは、どんどん激化していく。
しかし、こんなときにも怖いぐらいに冷徹に事を運べるのが、武田信玄ならではの魅力であろう。
信玄は北条との戦いを続けながら、同時に織田信長や足利義昭を介して上杉との和睦交渉も進めており、同年7月、ついに甲越和与に漕ぎ着けるのである。
これに再びブチ切れたのが北条氏康だ。
氏康が、宿敵である上杉に領土を割譲し、実子の景虎を養子に出してまで謙信との同盟を結んだのは、すべて武田信玄を追い詰めるため。
それが肝心の上杉と武田で和睦が成立してしまったら、北条と上杉の同盟は全く意味がなくなってしまう。

左から上杉謙信・北条氏康・武田信玄/wikipediaより引用
そして永禄12年8月、武田軍は意外な行動に出る。
信玄は甲府を出陣すると駿河方面ではなく、碓氷峠を超えて西上野へ進軍。
北条の主力を駿河方面へ寄せ付けておき、その間に上野(群馬県)から関東へ軍を進めてきたのだ。
意外だった信玄の小田原城包囲
武田軍は永禄12年9月9日、武蔵御嶽城(埼玉県神川町)へ攻め込むと、翌10日には北条氏邦のいる武蔵鉢形城(埼玉県寄居町)へ進軍。
籠城した氏邦を力攻めにはせず、次に北条氏照のいる滝山城(東京都八王子市)へ向かった。
武田軍の滝山城攻めは、信玄の本隊だけではなく、甲斐方面からやってきた小山田信茂による別働隊の活躍もあり、三の曲輪まで占領に成功。
しかし二の曲輪を守備した北条氏照が奮戦したため、信玄はここも三日で包囲を解いて、南進している。
正確な日付は不明ながら9月中旬の頃と推測。
そこから武田軍は、小田原方面へと軍を進め、ついに小田原城を包囲したのは永禄12年10月1日のことだった。
信玄の小田原城包囲――北条方はこの事態をどう捉えたのか?
上杉謙信もすぐに諦めたことだし、大した危機感はなかったのか……というと答えは否で、北条にとっては想定外の危機だったと考えられる。
北条は西方面、つまり武田軍の駿河侵攻に対して主力を振り向けており、北方面から信玄がやってくるとは思いもよらぬことだった。
そこで
「小田原城、手薄なり!」
とでも言わんばかりに信玄によって本拠地を包囲された衝撃は相当大きかったようで、戦後、北条では小田原城の大普請を行い、周囲の支城も徹底強化している。
信玄としては、してやったり。
北条の注意を上野・武蔵・相模へ向け、駿河を手薄にさせる狙いであり、小田原城を本気で陥落させようとは考えていなかったのであろう。
10月4日に撤収すると、甲斐への帰路で北条氏照や北条氏邦、あるいは北条綱成らと三増峠の戦いに発展したのは前述の通り、信玄は完勝を治めて甲府へ戻った。
◆
その後、信玄は再び駿河へ侵攻。
もちろん北条勢の抵抗はあったが、永禄12年12月に再び駿府を攻め取ると、その後、駿河の支配を進めていくことになる。
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参考文献
- 平山 優『図説 武田信玄』(戎光祥出版, 2022年2月3日, ISBN-13: 978-4864034135)
出版社: 戎光祥出版公式商品ページ |
Amazon: 商品ページ - 今福匡『図説 上杉謙信 ― クロニクルでたどる“越後の龍”』(戎光祥出版, 2022年3月17日, ISBN-13: 978-4864034166)
出版社: 戎光祥出版(公式商品ページ) |
Amazon: 商品ページ - 武田氏研究会 編『武田氏年表(信虎・信玄・勝頼)』(高志書院, 2010年2月, ISBN-13: 978-4862150691)
出版社: 高志書院公式商品ページ |
Amazon: 商品ページ