永禄9年11月19日(1566年12月30日)は毛利軍に城を包囲されていた尼子義久が降伏した日。
いわゆる第二次月山富田城の戦い(がっさんとだじょうのたたかい)が終わり、毛利元就が尼子に勝利しました。
実際に開城したのは11月28日であり、以降、毛利は中国地方の制覇という偉業を成し遂げますが、今回、注目したいのは落城までに元就が用いた戦術。
一言でいえば「兵糧攻め」であります。

毛利元就/wikipediaより引用
城を囲んで将兵たちを飢えさせ、弱ったところを叩きながら、最終的に降伏させる。
攻撃側の損害が少なくて済む反面、籠城側には餓死者が出たり、酷いときには亡くなった人を食する事まで行われたのは、秀吉による「三木の干し殺し」や「鳥取城の飢え殺し」でも有名です。
籠城した人々が飢えるとどうなるか?
その詳細は以下の記事に譲りまして、
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鳥取の渇え殺しと三木の干し殺し|秀吉と官兵衛が仕掛けた凄絶な飢餓の包囲戦
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今回は、戦術家として名高い毛利元就が、実際にどんな兵糧攻めをしたのか。
第二次月山富田城の戦いでの手順が非常に興味深いため、Googleマップと共に振り返ってみたいと思います。

難攻不落として知られた月山富田城
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兵糧攻めの基本は周囲の拠点制圧
毛利元就は如何にして尼子義久を追い詰めたか――。
第二次月山富田城の戦いにせよ、秀吉の三木城・鳥取城攻めにせよ、基本戦術は同じです。
①交通の要衝を監視するための拠点を構築
②支城を攻略
③本城の周囲に陣や砦(付城)を構築
④米搬入ルートを徹底監視して本城を飢えさせる
本城とは?
毛利が攻めた月山富田城(城主・尼子義久)そのものであり、支城は本城の周囲にある拠点です。
普段は複数の城が連携して防御力を固めるわけですが、もしも支城や交通の要衝を敵に落とされると逆に敵の拠点となってしまい圧迫されてしまう。
本来でしたら、そうならないように尼子も本城から出兵して支城などを守ります。
しかし毛利は、さらにその遠方にも拠点を作っていて、ジワジワ攻められる尼子としては手出しできなくなっていました。
では、月山富田城を攻めるにあたって毛利が押さえた“交通の要衝”からGoogleマップで見てみましょう。
下の方にある赤いマークが尼子の月山富田城で、上にある3つの黄色いマークが毛利の拠点(右から順に美保関・福浦・外江)。
永禄8年(1565年)頃から、毛利は上記の拠点を押さえ始め、海上からの物資を敵に運ばれないようにしていました。
むろん海だけ押さえてもどうにもなりません。
赤い拠点=月山富田城の周囲にはいくつかの支城があり、次にそれを攻略していきます。
兵糧留を駆使する元就
月山富田城の周囲には熊野城、福良(山)城、十神山城という尼子方の支城がありました。
毛利がその3拠点を陥落した結果、どうなったか?
再びGoogleマップをご覧ください。
赤いマーク(月山富田城)の近くに、さらに黄色いマークが3つできているのをご確認いただけるでしょうか?
右から順に十神山城、福良(山)城、熊野城となります。
そもそも城は、最も大事な交通の要衝に立っているものですから、ここを拠点に周辺の街道などにも人を配置しておけば城への運搬は非常に困難となる。
実際、永禄8年(1565年)1月に上記3つの城が毛利方になると、月山富田城への新たな兵糧補給は完全に途絶えました。

月山富田城絵図/wikipediaより引用
なお、毛利元就が第二次月山富田城の戦いに挑むにあたっては、商人に対して「兵糧留(ひょうろうどめ)」と呼ばれる規制も実施されています。
米を買うための制札(パスポートみたいなもの)を毛利が発行。
これを持ってない者に対し、米を売らせないよう商人と地元の国衆に命じたのです。
なぜ、そんな面倒なことを?というと、尼子方の家臣が「毛利の使いである」と偽って買うのを防止するためでした。
商人であれば客が誰であろうと構いませんので、事前に制しておいたのですね。
兵糧留については鳥取県の公式サイトでも解説されていますが、天正9年(1581年)に秀吉が鳥取城を包囲したときは、事前に周辺の米を買い漁ったため、城内に十分備蓄できなかったとされます。
商人を利用して尼子を包囲した毛利勢が、その16年後、秀吉から同じような罠にはめられるとは、なかなか因果なものです。
閑話休題。
月山富田城の兵糧攻め、最終局面へと進みましょう。
麦畑を刈り取り尼子勢をおびき出す
海を封鎖して、周囲の支城も押さえた毛利。
次は本城・月山富田城の近隣を囲みます。
永禄8年(1565年)4月、元就は、月山富田城の麓にある常安寺から石原・上田(植田)にかけて大軍を配置しました。
再びGoogleマップをご覧ください。
毛利の黄色い拠点がさらに3つ増え、赤い拠点マークが半分隠れてしまう程になっていますね。
ここで元就はさらに、尼子の軍勢を城からおびき出すため、配下の者たちに麦薙(むぎなぎ)を強行させます。
麦薙とは栽培中の畑の麦を刈り取ってしまうことであり、これを阻止すべく出陣してきた尼子軍はあえなく毛利軍に返り討ちにされますが、一気に本城の陥落までとはいきません。
しかし、もはや勝負は決したも同然。
いったんは最前線から退くも、月山富田城への兵糧攻めを続けた毛利は、投降を希望する兵を許しませんでした。
彼らを拒絶して城の中に留まらせておくことで、一刻も早く飢えるように仕向けたのです。
そして兵糧が完全に枯渇したのを確認してから尼子の将兵たちに降伏を認めると、多くの者がズルズルと降ってきて尼子に余力はなくなり、結果、永禄9年11月19日(1566年12月30日)に尼子義久は敗北を認めました。
※11月19日ではなく11月21日という説もあり、今回は『日本史「今日は何の日」事典』(吉川弘文館)の記述を典拠とさせていただきます
◆
秀吉にも負けず劣らず、毛利元就による巧みな兵糧攻め。
戦いに敗れた尼子義久は最終的に切腹を……と思いきや、開城前に毛利と行われた交渉で助命が約束されました。
大名としての尼子家は滅びるも、その後、巡り巡って義久は毛利家の家臣となり、慶長15年(1610年)までの天寿を全うしています。
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参考文献
- 山本浩樹『西国の戦国合戦(戦争の日本史 12)』(吉川弘文館, 2007年, ISBN-13: 978-4642063227)
出版社: 吉川弘文館公式サイト(書誌情報) |
Amazon: 商品ページ - 柴裕之『図説 豊臣秀吉【オールカラー】』(戎光祥出版, 2020年7月, ISBN-13: 978-4864033558)
出版社: 戎光祥出版公式サイト(書誌情報) |
Amazon: 商品ページ - 吉川弘文館編集部(編)『日本史「今日は何の日」事典――367日+360日・西暦換算併記』(吉川弘文館, 2021年1月5日, ISBN-13: 978-4642083911)
出版社: 吉川弘文館公式サイト(書誌情報) |
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