息子の武田義信を死へと追いやっても。
なぜ信玄の嫡男・武田義信は廃嫡へ追い込まれたのか 最期は病死だった30年の生涯
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信玄が欲しかった海――それは北の越後ではなく南の駿河でした。
この侵攻により【武田―今川―北条】の甲相駿三国同盟は破綻。
信玄が手にしたものは大きいものでしたが、失ったもの決して小さくなく、とりわけ北条方と自身の娘に与えたネガティブインパクトは多方面に暗い影を落とすのでした。
駿河侵攻
◆1541年に父の武田信虎を今川義元のもとへ送り、強引に隠居させた武田信玄は、その後、1554年に北条家と今川家の争いをまとめながら甲相駿三国同盟を締結。しかし1560年、桶狭間の戦いを機に三国同盟は瓦解へ……。1567年、武田信玄は徳川家と「今川領を東西半分コにしよ♪」と話をつけ、駿河へ攻めこむのでした。
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黄梅院
◆武田信玄の娘にして北条氏政へ嫁いだ黄梅院。2人は夫婦仲が大変良く、離婚によって苦しめられたとされ、実際、黄梅院は甲斐へ帰国後、程なくして亡くなってしまいます。
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駿府陥落
◆武田家が駿河へ侵攻したとき、北条家からは氏政率いる援軍が出されました。今川領が武田家のものとなれば、当然ながら北条家への圧力も増し、信玄の強大化だけは絶対に避けねばならなかったのです。
しかし……。
今川氏真が、武田と合戦をしようにもそのたびに裏切り者が出て、ほぼ戦わずして敗戦に次ぐ敗戦。流れ着いたのが……。
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恋の逃避行
◆駿河を奪われ北条氏のもとへ流れ着いた今川氏真とその妻・早川殿。その後2人は長生きします。大坂の陣があった1615年前後まで生きるのです。
甲斐へ送り返された黄梅院がその翌年に亡くなってしまったことを考えると、夫・北条氏政の無念さはいかばかりか……。まぁ、これも戦国のならいと言えばそれまでですが……。
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