新選組の最強剣士は誰か?
その候補を挙げると、歳若く「ともかく強かった」とされるのが彼ら……。
◆永倉新八
・松前藩浪人
・神道無念流
◆斎藤一
・明石藩浪人
・流派諸説あり
いずれも新選組の中では人気もトップを争う二人です。
しかし、世間的な知名度で言えばやはり彼には勝てないでしょう。
◆沖田総司
・白河藩浪人
・天然理心流
そう、沖田総司です。
彼ら3名は剣術師範として、新選組の隊士を指導しておりました。
剣の腕前は僅差だったようで、新選組・阿部十郎の証言によれば、
【永倉>沖田>斎藤】
になるとか。
このうち沖田総司のみが明治維新前夜の慶応4年(1868年)5月30日に命を落としておりますが、各種フィクションでは今なお屈指の人気者でもあります。
では史実の沖田総司はどのような人物だったのか。

生涯を振り返ってみましょう。
白河藩足軽の子として生まれる
沖田総司は、天保15年あるいは弘化元年(1844年)に生まれたとされております。
家紋は丸に木瓜。姉のミツとキンがおり、総司は嫡男でした。
赤ん坊の頃から元気よく手足を振っていたと言います。少年時代から、川で泳ぐフナを素手でサッと捕まえるほど、高い運動能力も見せていました。
沖田家は父・勝次郎の代から白河藩に足軽として奉公し始めました。

白河藩の居城・白河小峰城(白河城)
俸禄はわずかなもの。しかも勝次郎は総司が幼少期に亡くなってしまいます。
姉・ミツは、婿養子である林太郎を迎えました。乳幼児死亡率が高い時代に、幼い男子一人では、心許ないものがあったのでしょう。
では、白河藩にルーツを持つ沖田が、どうして多摩ルーツの新選組に入隊したのか?
実は多摩周辺の人々と姻戚関係があったとされています。
証言はまちまちで確定が難しいですが、推察はできます。
◆江戸時代の身分制度は、現代からイメージされるよりも流動性が高い
→そんな中、沖田家は身分を何らかの手段で変えた力があった
◆新選組構成員は関東出身者が多く、身分制度流動性の影響を受けやすかった者が多い
→永倉新八の場合、一説によると先祖に江戸っ子美女がいて、彼女が松前藩の殿様の目に留まり、側室となったことが士分に取り立てられた契機とされる
沖田にせよ、永倉にせよ、本籍のある藩ではなく、関東にルーツがあると認識していた下級武士なのです。
若い頃呉服屋で働き、鋏の使い方がうまい。趣味は俳句。そんなオシャレな商人上がりの土方歳三に、武士である隊士が従っていたのはなぜなのか?
土方本人のカリスマ性もあるのでしょうが、彼らはそもそも、武士という身分にそこまで特権意識がなかった可能性はあります。下級武士と豪農の違いは、さしてなかったのでしょう。

土方歳三/wikipediaより引用
彼らは幕府の権威が低下し、身分が流動していた、幕末という時代の申し子。
新選組隊士は、武士の最下級と、上級豪農という、身分が交わるような階層が多いのです。
幕府を守る側であっても、幕末という時代にあわせた「身分の変動」あっての組織でした。
天狗の生まれ変わりのような少年剣士
そんな幕末の関東に生まれた沖田総司は、道場「試衛館」に通うようになります。
これも貧しい家計事情がありました。
格好の比較対象として、永倉新八がおります。

永倉新八/wikipediaより引用
そこまで経済的に困っていない永倉は、神道無念流剣術道場「撃剣館」に入りました。名門の流派であり、剣術を習いたい武士にとってはエリートコースです。
永倉はそこで強さを発揮し、正統派剣士として自他共に認めることとなるのです。
当時、剣術のエリートが学ぶ三大道場がありました。
◆幕末三大道場
神道無念流「練兵館」:パワー型。長州藩・桂小五郎(木戸孝允)らが学ぶ
北辰一刀流「玄武館」:技巧型。山岡鉄舟、清河八郎、山南敬助、藤堂平助らが学ぶ
鏡新明智流「士学館」:洗練型。武市瑞山、岡田以蔵らが学ぶ
白河藩下屋敷から一番近い道場は練兵館。しかし、沖田家は貧しく通うことはできません。
幼い総司は、稽古帰りの先輩や同輩に教えてもらうことしかできない。
それでも、教える側が押されるほどの素早さと鋭さを、総司は見せるようになります。大人すらその動きを恐るほどの素早さであり、そのうち
「あれは天狗の生まれ変わりでねえべか?」
と囁かれるようにまでなりました。
いつか剣術で戦う日が来るのではないか?
沖田総司は嘉永2年(1849年)、義兄・林太郎の実家である井上宗蔵家で火災があったため、井上家のある多摩まで向かいました。
ここで手合わせをして、その非凡な才を近藤周助が認めたという逸話が残されております。
ただ、諸説ある生年を考慮すると、さすがに幼いのではないか?という気もします。
年代や情報に誇張がある可能性はありますが、沖田総司の才能が地元で語り継がれたのは間違いないということでしょう。
そうした経緯を経て、幼いながら試衛館に出入りするようになった沖田総司は、親戚の子どものような扱いでした。
修行の日々は、まさしく青春といった趣きはあります。沖田総司の出稽古は思い出話としても伝わっています。新選組がフィクションでも人気があるのは、この終わらない青春イメージが影響しているのでしょう。
ただ、当の本人たちは危機的意識を持ち合わせ、かつ習得した技能は殺人剣であったことも事実。
黒船来航までノンビリしていられたわけではありません。
北のロシア。
沖合いに見える捕鯨船の影。

19世紀、アメリカの捕鯨船・Charles W. Morgan/wikipediaより引用
急激に治安が悪化する関東。
いつか剣術で戦う日が来るのではないか?
世の中は確実に動いており、そんな緊張感とともに、試衛館に集う若者は稽古に励んでいたのでした。
総司の周囲でも色々ななことがありました。
試衛館の道場主である近藤勇は、極めて真面目な性格でした。
彼の妻・ツネは醜いことで知られています。男が出入りする道場ならば、むしろ美人ではない方が良いと考えたそうです。
しかし、勇の義父・近藤周助はそうでもなく、妾と騒動を起こし、門下生を困惑させたこともありました。
沖田家でも、義兄の林太郎が江戸詰の白河藩士であったのが、浪人になってしまったり、剣術だけに集中できるわけでもない。
そんな時代が沖田総司にもあったのです。
「三段突き」の謎
名剣士となれば必殺技がつきものではあります。
同じ新選組の斎藤一は『るろうに剣心』においては「牙突」があります。『燃えよ剣』はじめとする、司馬遼太郎作品設定での左利きも知られています。
ただ、どちらもフィクションであり、史実ではありません。
「特定の個人と特定の技」のパターンは、フィクションで楽しむならともかく現実には危険です。敵に対策を立てられやすくなります。必殺技にはロマンがありますが、非現実的なんですね。
では沖田総司の技は何か?
というと「三段突き」です。

実は沖田は免許皆伝の時期すら不明。では腕前はどうだったのか? というと実際に稽古をした人、隊士の証言を基にした方がよさそうです。
ざっと見てみますと……。
「近藤勇さんが来ない代わりに、沖田総司さんが来たこともあるんですけどね。彼は強いのに容赦しないし、教え方が乱暴だし、短気なんですよ。なので、近藤さんよりずっと怖いって皆で言い合っていたんです」
「沖田さんの場合、ともかく気合いを入れて、一剣に全身を託して、刀とともに猛然と敵に当たっていくんです。いわば彼の一の太刀はのるかそるか。そういうものでしたね」
実は沖田の突きは、天然理心流としては異端ではあります。
天然理心流の印可には突き技がないのです。
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流祖・近藤内蔵之介は、突き技には疑念を抱いていました。
沖田のようにのるかそるかで突くと、当たればよいものの、外すと隙が大きすぎて危険であると認識していたのです。
これは八王子同心が学び、凶悪犯逮捕のために生み出された天然理心流のルーツを考えると、納得できるところではあります。
チームワークを重視し、殺すよりもとらえることが大事である。
そういう成立史がある流派であれば、ハイリスクな突き技はむしろ避けるのが当然です。
竹刀に慣れていた沖田は、木刀で稽古する天然理心流に入門し、己の非力さを痛感しました。
幼くして入門したこともあり、たくましい近藤たちに遅れないよう、彼なりに考えていったようです。
天狗と例えられた持ち前の素早さ、鋭さを活かす工夫をしたのです。
沖田総司の突きは、皮肉にも新選組が恐れたあの流派に似ているとも言えます。
薩摩ジゲン流です。
一の太刀を当てることを重視した戦いぶりと通じるものがあります。
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沖田の「三段突き」は、不明点が多いものではあります。
ただ、幕末当時の殺人剣として理にかなっていて、かつ天然理心流や道場で剣術を学んだ隊士とは別の戦い方を持っていたと推測できます。
もうひとつ。「下段の構え」も編み出していました。
剣先をだらりと下げて、敢えて面を開けます。
そこを打ち込んできた太刀をわずかにかわし、あげた太刀をそのまま下ろすのです。
剣術集団である新選組隊士には、それぞれ得意な戦い方がありました。
洗練されていて、スポーツマンシップも感じさせつつ、ともかく技巧がある永倉新八。
「メーン!」「コテッ!」と叫んでしまう欠点もありました。
スパイを務める知能派であり、渋い実践剣を振るった斎藤一。
生き残る術を常に考えていたとされます。
そして情熱的で荒々しい剣術で立ち向かっていく沖田総司。
フィクションのみならず史実でも三者三様、魅力的な三人の剣士でした。
沖田総司美剣士伝説の真偽
最近は、斎藤一らに押され気味の沖田の人気。
そうは言っても新選組では屈指でありましょう。
どこか純粋で、はかなげで、美男子で。
肺結核を患っていて、悲恋を味わう。
愛刀は菊一文字とされる(※史料不足で特定できません)。
土方歳三の場合、美形だったという同時代の証言もかなりありますし、写真もイケメンです。
斎藤一も、写真が実に男前だったことで話題になりました。

斎藤一/wikipediaより引用
では……沖田総司はどうでしょう?
一応、子孫をモデルとした肖像画はあります。ただ、こういう血縁関係者から再現した肖像画があてにならないことは、斎藤一でも証明済です。
写真が発見されたとされたことも、これまで何度かあります。
土方の遺品から出てきたとか、そういう逸話も盛られましたが、これも背景の事情は明らかになってきています。
◆幕末には無名な人物の写真も結構撮られている
◆そんな写真とドラマで演じた俳優が似ていると信憑性が増す
こういう展開ですね。
斎藤一のように子孫が持ち出したようなものでなければ、信用できないと考えた方が良さそうです。
子母沢寛(しもざわ かん)の『新選組異聞』は確かに貴重でありますが、話が誇張気味なので注意が必要です。「頬骨が高い、口が大きい」という描写は、作者が付け加えたものとされております。
こうした諸事情を勘案しますと、やはり頼りとなるのは目撃証言でしょう。
・色が浅黒い
・目が細い
・平たい顔(ヒラメ顔とされることもありますが、これは誇張か、聞き違いがあるようです)
・五尺五寸(167センチ)の人物と身長は同じくらい
土方や近藤のように、特に目立つ点がないということでしょう。
美男でもない、その逆でもない、普通の顔ということです。
京都で女性との恋愛があったという証言や、女性縁者の墓もあります。恋をしたことはあったようです。
ただ、近藤勇の嫁取り話や、土方歳三のような若い頃からのモテモテ伝説はありません。
土方は「ラブレターもらいすぎぃ!」と調子に乗った手紙を故郷まで送り、そのことで姉・ノブに叱られ反論できなかったそうです。
沖田には、そういう恥ずかしいやらかしはないようです。恋愛に関しては、ごく普通の青年ということでしょう。
美形であるというイメージが誇張されたせいか、ギャップ狙いで「醜かった」という話も誇張されます。
美醜の噂は置いておき、ごく普通であるということでよいのではないでしょうか。
むしろ特異性があったのは、身体能力でしょう。
多摩から上洛し、新選組結成
気の荒いところもある。近藤や土方と親しい。
そんな白河藩士の青年であった沖田総司にも、転換点が訪れます。
文久2年(1862年)、江戸幕府は庄内藩郷士・清河八郎の献策を受け入れ、将軍・徳川家茂の上洛に際し、将軍警護の名目で浪士を募集しました。

徳川家茂/wikipediaより引用
これを契機に新選組が結成されますが、まだ若く、意思決定にそこまで深く関わっていない沖田はあくまで脇役です。
近藤勇は人情味があり、人を束ねる力量がありました。
そのため試衛館には剣士たちが集まり、新選組を組織できたのだと言えます。人の心をつかむカリスマ性と人徳がありました。
土方歳三は、家伝の石田散薬を作るための材料を刈り取る時ですら、指揮能力を発揮しています。
商人だった頃から、人を惹きつける魅力やセンスがありました。道場での剣術はさほど強くないようで、他流試合をこなし、自分なりの戦術を考えていました。戦いや集団を指揮するマネジメントスキルがあった。
つまり近藤と土方の二人は、組織で花開く存在だったのですね。
一方の沖田は?
当時、まだ22歳前後。性格的にも、近藤や土方のような組織マネジメントは発揮されていなかったと推測できます。
あくまで近藤や土方の命令を受けて動く存在でした。
特筆すべき点があるとすれば、この上洛により「白河藩からの脱藩」という処理が行われたことです。
沖田家は義兄・林太郎が継ぐことが確定的となった。嫡男であった彼が不在となることで、姉・ミツの夫が後継者となったわけです。
未婚であり、子もいない沖田総司なのに、沖田家に子孫がいる理由は、ここに起因します。
沖田総司にとっても、この上洛が人生の転機であったことは確かです。
壬生浪士組から新選組へ
前述の通り、沖田はあくまで一隊士であり、新選組そのものの動向を追えば彼の生涯も理解できます。
新選組は、結成当時から特徴がありました。
◆経済的には苦しく、組織も不安定
→京都守護職になった会津藩の御預かりとなったものの、見切り発車状態であり、金策をし、住まいも、道場も、工夫しながらなんとかしていく状態
京都市内に先祖代々住む人には、新選組嫌いが多いとされています。
強引な金策を商人相手にし、時に暴力沙汰に及んだ、そんな先祖の嫌な記憶があるのです。
◆脱走者、ルール違反者粛清、内部分裂が多い
→ただし、新選組特有のものであるとは言い切れず
幕末の諸隊や組織で同様の傾向があります。
内部分裂した結果、凄惨な殺傷に発展したことはしばしばありました。
例えば有名な薩摩藩の【精忠組】、長州藩の【松下村塾】、土佐藩の【勤皇党】、水戸藩の【天狗党】等においてもそうした傾向が確認できます。

西郷隆盛(左)と大久保利通が率いた精忠組(誠忠組)/wikipediaより引用
にもかかわらず内部分裂が「新選組特有である」と誤解されるのは、権力勾配やフィクションの影響でしょう。
政府を築けば、不都合な記録を削除し、個人の責任にして責任回避ができる。そのため幕府サイドの新選組は、太平洋戦争以前のフィクションにおいて悪役が定番でした。
残酷な異常者集団であるというイメージが、流布していったのです。
そこはもっと冷静に考える必要がありましょう。
◆思想的には、実はあまり特徴がない
→新選組は攘夷思想を掲げ、西洋の技術や学問を否定していました
これは彼らが無知蒙昧ということでもなく、新政府をのちに結成する側も、幕府を守ろうとした側も、文久年間初期であればそこまで差はありません。
当初から開明派だった勝海舟や福沢諭吉ら幕臣、薩摩藩の五代友厚らは、非常に例外的な人物です。
ただし、新選組の思想面で転換点はありました。
芹沢鴨とその一派の暗殺です。
徳川斉昭が率いる水戸藩は、当時、屈指の尊王攘夷派でした。

徳川斉昭/wikipediaより引用
将軍継嗣問題で失脚したものの、思想的には煮えたぎっております。
そんな水戸藩出身の芹沢鴨は、バリバリの過激主張があったとしても、不思議はありません。
芹沢の暗殺には、金銭面や愛妾・お梅のことがやたらとクローズアップされがちではあります。
ただ、これにも注意は必要であるとは思うのです。
新選組は、フィクションでともかく盛り上がる。となると、お色気要素として芹沢と女の話が大きく取り上げられてもおかしくはありません。
芹沢の暗殺に巻き込まれて、同衾していた女性が殺害されていることもあるのでしょう。無実の女性を巻きこんだ暗殺となると、後味は悪いものです。
こういう時、死んでも仕方ない悪女であったと色付けすれば、その後味の悪さは軽減される。そういう気持ちはどうしても考えてしまいます。
文久3年(1863年)の芹沢鴨暗殺事件は、新選組の流れを決定づける重要なものではあります。
芹沢本人の人柄のようなことは横に置き、重要とされる点をまとめておきますと……。
◆芹沢鴨一派は水戸藩出身
→思想的な背景、出身地が近藤らとは異なる
◆「芹沢暗殺実行犯は長州藩の間者である」という噂を流していた
→近藤一派の責任を逃し、かつ徹底粛清をはかる狙いがあった
◆実行犯に沖田総司は含まれている
→永倉新八は暗殺後やっと知り驚いていたと証言しており、近藤からの信頼度の違いがわかる
幾度かの血腥い粛清を経て、文久3年末までには、芹沢一派が排除され、近藤主体の組織となってゆきます。
新選組の誕生でした。
世直しの気風があふれる幕末を生きる
その一方で近藤勇らには不満が募ってきます。
粛清を終えて組織が整ったものの、名目であった将軍護衛という任務はもはやない。
となれば、当初の目的である攘夷をしたい。しかし、そんなことをされては幕府にとっては頭痛の種が増えるだです。
当時の攘夷は、ブームとしての熱気がありました。
外国人なり、外国に思想を学んだ人を殺害して、一体何が思想なのか、そんなブームがあってよいものかと言いたくなるかもしれません。
テロであり、ヘイトクライムです。
尊王攘夷を掲げた側が明治維新を成し遂げたこともあり、犯罪としての責任が曖昧にされてしまった感はありますが、そこはごまかせません。
勝海舟、福沢諭吉、五代友厚のような人物は、愚かであると呆れ果てておりました。
攘夷を実行に移した人物も多数おり、そのせいで幕府は莫大な賠償金を請求され年貢が重くなりました。さらには内政干渉の口実まで与えたのですから、まさに百害あって一利なしです。
そんな折、新選組が攘夷をやらかしたら幕府としては困る……そこで、市中見回り、警護という役割を任されます。
けれども、近藤らは不満ではありました。

近藤勇/Wikipediaより引用
これでは町奉行同心と同じではないか!
そんな警備隊を任されるって、どうしたものだろう? もう解散しようか? そう悩んだ時期もありました。
しかし、近藤らは慰労を受け入れ、任務を続行することとなります。
新選組の色合いを考える上で、毛色の変わった事件があります。
元治元年(1864年)、大坂西町奉行与力・内山彦次郎が暗殺されております。
内山は、力士乱闘事件の際に新選組を捜査しており、これに新選組が怒り復讐のために殺されたという説がかつては定着していました。
しかし、これには検討が必要なようです。
そもそも犯行は新選組だったのか? 動機は何か?
ここがハッキリしないために、事件がよくわからないのです。
◆犯人は誰か?
→候補として新選組が挙げられることは確かで、その証言もあることはある
◆動機は?
→ここも問題で、内山本人が悪徳奉行であったという説もあれば、新選組を厳しく問い詰めた正義感の強い人物説も
悪徳奉行である内山を、新選組なり誰か犯人が、粛清世直しの気持ちを込めて殺したのか?
それともただの逆恨みか?
断言できません。
ただ、ハッキリと言えることがあるとすれば、当時は、極めて暴力的解決手段と世直しの気風があり、そして怒りに溢れていたことでしょう。
思想や立ち位置の違いはあれ、世直しとして暴力による解決できる――そういう気配が漲っていたのです。
新選組は暴力組織と呼ばれ、そこは否定しません。
新選組と敵対した長州藩士はじめ、尊王攘夷派も暴力的でした。これも、否定できないことです。
特定の組織や個人だけを極めて暴力的で例外的であったと特別視すると、幕末という時代はわかりにくくなりますので、注意が必要です。
新選組とは暴力的な集団ではありましたが、彼らを必要とするほどの治安悪化と、攘夷というテロ行為の横行も忘れてはなりません。
攘夷志士と新選組は、いわば共存関係でした。
池田屋での沖田は?
モチベーションが落ち込んでしまうほどであった新選組ですが、幕末の政局において存在感をます事件が発生します。
【池田屋事件】です。
新選組といえば同事件ばかり取り上げられる傾向があり、本質が見えにくくなります。
池田屋事件は、政治的な抗争である【八月十八日の政変】と【禁門の変】の間にあったことが重要でしょう。
新選組の強引な拷問による冤罪取り締まりである――そんな解釈もされてきました。
孝明天皇誘拐計画の真偽はさておき、政変からの返り咲きを狙い、何らかの事件計画があったのではないかということは、指摘されるところです。

孝明天皇(1902年 小山正太郎筆)/wikipediaより引用
大河ドラマでもおなじみのこの事件、2013年『八重の桜』が最新鋭かつ妥当な描写だったと思われます。
新選組を預かる会津藩としては、彼らの活躍は支持せねばならない。
とはいえ、話し合いを放棄して凄惨な暴力で解決することは、事態の悪化を招くことではなかったか?
ヒロインの兄であり先進的な思想を持つ山本覚馬の愕然とした反応。
そんな覚馬を甘いと軽蔑的に見る斎藤一。
そうした表現で、多層的な要素を示していました。
本稿で取り上げる沖田総司の見せ場となったのが、この凄惨な事件です。フィクションでおなじみの展開がそこにはあります。
拷問で五寸釘を相手の足の裏に打ち込む土方。
祇園祭の笛の音が響く中、池田屋へ殺到する新選組隊士。
映像作品では浅黄色の羽織着用がお約束の新選組は、史実において黒装束だったとされております。
彼らが池田屋に出向き、
「御用改である!」
と、近藤が一喝すると、少人数でありながら隊士たちが殺到します。

池田屋跡
かくして始まった、血まみれの激闘!
沖田総司は、結核のため喀血し倒れ込んでしまう!
実は、この沖田の昏倒は史実とみなされております。
事件後、真っ青な顔色をしながら、土方と隣あい、列の先頭に立ってフラフラと屯所へ戻っていった――そんな沖田の目撃証言もあります。
ただ、喀血というのは永倉新八の事実誤認でしょう。
当時はまだ発病前か、あるいは発病していても、倒れるほど悪化していなかったとみなす方が妥当です。
鎖帷子、鉢金を装備し、真夏の狭い室内で激しい斬り合いをすれば、熱中症になってもおかしくはありません。
沖田はその激しい性格ゆえ全力で戦い抜き、結果、倒れてしまったのではないかと目されます。
隊士たちの不和と戸惑い
【池田屋事件】と【禁門の変】での出動は、新選組の存在感を増大させます。
ファンとしては熱くなる場面ですし、新選組隊士もまさしく誇りある戦果を遂げたと思いたい局面でもありましょう。
ただ、敵対者からすれば決定的に印象が悪化した契機でもあります。
2004年の大河ドラマが『新選組!』だったとき、
「あんなテロリストを美化してどうするのか」
と、国会で取り上げられたほどでした。
隊士の中でも、もっと存在感を増したい功名心と、これでよいのかという疑問が湧いてくる局面です。
近藤勇は、周平という養子を取ろうとします。
周平は谷家の出身で、谷三十郎の弟にあたります。老中・板倉勝静(備中松山藩・第7代藩主)のご落胤(私生児)を谷家が引き取って育てていたという説も。
真偽はさておき、谷家と板倉家には何らかの関係があったようです。

板倉勝静/wikipediaより引用
近藤としては、養子縁組により、有力政治家である板倉家と縁故を結びたい気持ちはあったわけです。
土方との対比もあってか。今度はフィクションにおいて愚鈍で俗物的である面を強調されることもあります。しかし、そう単純な人物でもないと考えた方がよいのではないでしょうか。
この周平の嫁とするための養女・コウを、近藤は迎えていました。
この養女が沖田に惚れ、周平との結婚を拒んだという逸話もありますが、詳細と真偽のほどは諸説あるとしておきましょう。
近藤は自分がトップに立つ組織をここまで育て上げ、野心が芽生えていたわけです。のちに永倉新八や原田左之助が不満を募らせた一因は、このあたりにあるのでしょう。
一方で、新選組に対して疑念を募らせる隊士も出てきます。
新選組の体質があまりに酷かったという解釈もできます。確かに厳しい規則はありましたが、幕末という事情を鑑みる必要ありそうです。
この不安定な世の中を憂い、変えていきたい!
そのためにはどうすべきか?
天皇の意思を尊重すべきか?
あくまで武士は幕府を守るために動くべきなのか?
攘夷思想を貫くべきなのか?
洋式を取り入れるべきなのか?
藩や立場は違えど、幕末は常に選択をつきつけられておりました。
新選組のような下級武士だけの話ではなく、典型例としては、孝明天皇の信任と、藩祖・保科正之の教えに引き裂かれた会津藩主・松平容保もおります。

松平容保/wikipediaより引用
新選組がただの浪士、警備集団だけでなくなり、政治性を帯びてゆくことで、この疑念が強まってゆく人物も出てきます。
それが山南敬助(やまなみけいすけ)です。
フィクションでも人気が高く、彼が自害したことは確かです。ただし、そこに至るまでの動機に諸説があり、断定が難しい。
◆長期病気療養をしていた
◆結果、隊の幹部でありながら活躍ができないことに、引目を感じていた
◆文を嗜む教養人であり、新選組の変わりゆく体質にストレスを溜めていたようだ
◆土方と相性が悪く、多摩時代から「あいつはろくなもんじゃねえ」と、土方は山南を嫌っていた
◆暴力の連鎖、屯所移転、勤皇思想との兼ね合い等……
山南は元治2年(慶応元年)、自死を選びました。
しかし、不明瞭な点も多いのです。
・脱走したのか? 証言が複数ありハッキリしない
・脱走し、大津で追いつかれたと言うが、事前に病気療養のために大津にいたことも考えられなくもない
・別れを惜しんだ女性とされる明里は、創作説が有力
山南敬助は沖田より序列がひとつ上であり、同時期に病気療養していたという共通点があることは確かです。
ただ、沖田本人と山南敬助の関係性は、誇張があると考えた方がよいかもしれません。
ここで、山南の死と時期がそう遠くないある日の沖田総司の姿を証言からたどってみましょう。
沖田総司が相変わらずのさのさして、無駄口をきいて歩いていました。
父(源之丞)の顔を見ると、「八木さん、(近藤)先生がどうも顔から火が出るッていっていましたぜ」と、愉快そうに笑っていました。(『壬生ばなし』八木為三郎の証言)
沖田は冗談が好きで明るい性格の人物として、記憶されていました。子ども好きで性格が明るかったという証言もあるのです。
口調はべらんめえ、江戸っ子らしいものであったとうかがえます。白河藩の「べえべえ」という口調は、あまり好きでなかったそうです。
近藤の野心や気の大きさの現れとして、女性を休息所に囲ったこともあげられます。
かつてはストイックに不美人な妻・ツネを敢えて選んだ近藤ですが、そうした姿勢は変わっていったようです。
沖田がこうした女性宅で療養したこともあったようですが、こうした関係性を「上司の愛人宅」と現代的に考えることはやめておきましょう。
幕末当時の人間関係は、現代とは異なるものです。
前述の通り、沖田にも縁のある女性がいたようではありますが、近藤ほどはっきりとした記録はないようです。
証言から見えてくる沖田は、竹を割ったように明るく、めっぽう強く、カラリとした性格の青年像です。
斜陽の日々
元号が慶応年間となりますと、新選組の歴史に影が落ち始めます。
新選組は幕府と会津藩の下部組織であり、上の勢いが翳ればそうなるのは不可避です。
それでも彼らの戦いは続きます。
なまじ新選組は有名であるだけに、彼らが関与していない乱闘や殺傷事件でも、責任を押し付けられ、不明点が多い。
それでも沖田含めて隊士が事件に関与し続けたことは確かです。
もっとも、かつて彼らの犯行とされた坂本龍馬殺害は、現在では否定されています。

坂本龍馬/wikipediaより引用
指示者は松平容保であり、実行犯は見廻組とされています。
そうした京都での隊内での活動は活発でも、幕府権威の失墜ゆえに実現できなかったこともあります。
最大のターニングポイントは【長州征討】の不完全燃焼でした。
あれさえ完遂していれば倒幕は回避できたのではないかと、明治になってからも幕臣が振り返っているのです。
そんな激動の慶応3年(1867年)、沖田総司自身の命も転換点を迎えます。
無駄口を叩き、京都でも試衛館のことを思い続ける、そんな明るい沖田。病状悪化がはっきりと認識され記録されるようになったのは、この年のことでした。
幕府の命運が差し迫ってゆく中、一人の青年も死へと直面していきます。
新選組幹部が幕臣に取り立てられてゆく中で、彼は命の終わりと向き合うことになるのです。
秋の御陵衛士を始末した【油小路事件】に、永倉新八と斎藤一は出動しています。
もしも沖田が健康体であれば、彼もいたことでしょう。
しかし、もはや彼にはそれだけの体力はありませんでした。
それどころか御陵衛士は病気療養中の沖田殺害を狙っていたという記録もあります。されど、叶わないと悟ると、標的を近藤勇にシフト。かくしてこの年の暮れ、近藤勇は狙撃により負傷するのです。
激怒した沖田は、襲撃犯を全員始末してやる!と息巻くものの、叶わぬ望みでした。
年が明け【鳥羽・伏見の戦い】において新選組を含めた幕府軍は大敗を喫します。

鳥羽・伏見の戦い(上:富ノ森の遭遇戦と下:高瀬川堤での戦闘)/wikipediaより引用
新選組隊士は、富士山丸に乗せられて、江戸を目指して海を揺られてゆく。
ここでも沖田は、寝たきりでありながら冗談を言い、笑ってばかりいました。
「笑うと、あとから咳が出ていけねえなぁ」
そう沖田が語るのを聞き、近藤は驚きました。
あの若さで、ああも死に対して悟りきっているとは珍しい――妻にそう語り残したそうです。
最期のとき
江戸に辿り着いた新選組には、さらなる困難が待ち受けていました。
西郷隆盛と会談した勝海舟にとって、敵意を煽り立てる新選組は邪魔な暴力装置でしかありません。

勝海舟/wikipediaより引用
そこで【甲陽鎮撫隊】の名目をつけて江戸から追い払います。
新選組はここで大敗を喫し、永倉新八や原田左之助は近藤を見限りました。
沖田はそうした騒動に参加すらできません。
途中で立ち寄った佐藤彦五郎邸では、相撲の四股を踏んでアピールしたという証言もありますが、無理をしていたのです。日野から先は、ついていくことすらできなくなりました。
幕臣である医師の松本良順に匿われ、療養するしかない。もはや戦えぬ沖田は、新選組隊士たちと別れる他なかったのです。
姉・ミツと林太郎は、転戦し庄内藩へ向かっており、弟の見舞いもできない状態。
沖田は孤独でした。
2月になり、江戸でも梅がほころび、春が迫る中。沖田は千駄ヶ谷・植木屋平五郎の家に移ります。
彼にとって、短い命を終える場所でした(以下のマップは伝・沖田総司逝去の地となります)。
ここで黒猫の話に触れておきましょう。
沖田の死の数日前、黒猫を斬ろうとして斬れないと嘆き、そのまま倒れて亡くなったというものです。
これは創作であるとされています。
◆黒猫が不吉という印象は、西洋由来ではないか?
→化け猫伝説はありますが、招き猫伝説もある。黒猫を不吉なものとみなすのは、明治以降のイメージが根強い
黒猫はむしろ病気療養に効くとされており、その願いを込めて飼育した可能性があります。
そうだとすると、殺す必要はありません。効かないから八つ当たりで斬るというのはありえますが。
◆肺結核を悲劇的とするのはいつからか?
→これも明治以降、徳冨蘆花の『不如帰』といった文学由来でもある。黒猫は、そんな悲劇的イメージを演出する小道具的存在
沖田総司は夏の暑さの中、5月30日(新暦7月19日)、短い生涯を終えました。
享年27。
近藤勇よりやや遅れ、土方歳三が函館で戦死するよりも前のことでした。
近藤勇の刑死を、病床の彼には伝えられなかったとされます。
沖田総司が最期まで気にかけていたことは、黒猫ではなく、近藤勇狙撃犯を斬ることでした。
「虜輩を斬るにあたりては、万(すべ)て狩るのみ――」
くだらぬ者を斬るのであれば、全て狩るだけだ!
死の直前まで、近藤勇襲撃犯を罵る言葉を口にしていたと伝わります。
稽古をつけてもらう者が恐れるほどの気の強さは、最期の時まで沖田総司に残されていたのです。

伝沖田総司逝去の地/wikipediaより引用
フィクションでは、儚げな美青年としての印象が強い沖田総司。
短い生涯であるだけに、写真もなければ本人が語り残すこともなく、イメージの修正も難しいようではあります。
そうしたイメージを取り払うと、そこにあるのは等身大の青年像があります。
冗談を好み、血気盛んで、死を悟るようで、近藤の仇討ちのために生きたいと願う――そんな人物。
あまりに血腥い人生であることは確かですが、幕末という時代を考慮すれば仕方のないことでしょう。
動乱の時代を生きた青年像は、色あせることなく、現在まで伝わっているのです。
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【参考文献】
相川司『沖田総司 新選組孤高の剣士 (中公文庫)』(→amazon)
菊地明『新選組一番組長 沖田総司の生涯 (新人物文庫)』(→amazon)
平野勝『多摩・新選組紀聞』(→amazon)
『国史大辞典』
『角川日本史辞典』
他







