雨の日にヤンキーが子犬を拾っていたり。
イメージと現実が真逆というのは人類定番のお話ですが、過去には皇室においてもそういう方がおられました。
享保十七年(1732年)8月6日は、第112代天皇・霊元天皇が崩御された日。
江戸時代の天皇というと、将軍や幕閣の陰に隠れてしまい、なかなか話題になりませんが、調べてみると「すごい」としか言葉が出ないような方もチラホラいて、霊元天皇もその一人かと思われます。
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個性的な霊元天皇のきょうだい
この方の父親は、江戸時代初期の天皇としてたびたび名前が出てくる後水尾天皇。
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その後【紫衣事件】やら諸々の軋轢もあったわけですが、それは霊元天皇を含めた子女たちにも影響を残しました。
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後水尾天皇の子女は四人皇位を継いでいて、どの方も違う方向で濃い逸話を持っています。
まずは四人とも簡単にご紹介しておきましょう。
◆109代・明正天皇
→後水尾天皇が江戸幕府にキレたため、突然譲位されてしまった女帝
◆110代・後光明天皇
→京都所司代に「切腹できるもんならしてみろよw」とタンカをきった方
◆111代・後西天皇
→中継ぎ扱いだった上、たまたま天災が相次いで責任を取らされた方(´・ω・`)
◆112代・霊元天皇→今日この方
四人とも異母きょうだいなのに、なぜ皆さん個性的なのか。
後水尾天皇の性格からして、明正天皇と後西天皇が母親似で、後光明天皇と霊元天皇が父親似だったってことかな。
後光明天皇の強烈っぷりは以下の記事で取り上げておりますので、よろしければどうぞ↓。
江戸幕府を相手に一歩も引かず!後光明天皇の豪快痛快エピソード
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父と同じく霊元天皇も35人の子供がいた
まあそれはともかく、子女の皆さんが若くして譲位したり、夭折したりしたにもかかわらず、父の後水尾天皇は譲位&出家した後もバリバリ元気で院政を行っていました。
なにせ、霊元天皇は即位したときたったの9歳でしたからね。
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しかし、いくらお元気でも寿命はあり、後水尾天皇が延宝八年(1680年)に崩御されてからは、霊元天皇も親政に乗り出しました。
26歳になっておりましたので、まだまだ若いとはいえ、17年も父の手腕を見ていれば大なり小なり学んでいたことでしょう。
むろん、江戸時代ですから、全国的に影響を及ぼすことはできません。
霊元天皇が力を注いだのは、皇室の威厳を取り戻すことと、そのために力になってくれる公家を集めることでした。
つまり、幕府と親しくしているのであれば、いくら名門の公家でも容赦なく干したのです。
霊元天皇の父や兄・後光明天皇と似ていたと思しき部分がそれに拍車をかけました。
若い公家と共にあまりよろしくない騒ぎを起こしたり、中宮や典侍(武家でいう側室)の他にも後宮の女性との間に多くの子供をもうけたり、懐事情の厳しい朝廷にとっては悩ましいことをいろいろしています。
ちなみに後水尾天皇も霊元天皇も35人の子供がいます。
この時代のことなので、数年で亡くなってしまった人もいますが、張り合ってでもいたのかとツッコミたくなるような人数ですね。
勇気ある公家の中には、これを諌める人もいて……「お前しばらく来なくていいわ」と言われておしまいでした。
さらに「母方の親戚が出しゃばってくるのを防ぐため」として、第一皇子を無理やり僧籍にしてしまったのですから大騒ぎです。
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