画家

祖母に飲まされた酒でアルコール依存症に苦しんだモーリス・ユトリロの画家人生

1955年(昭和30年)11月5日は画家のモーリス・ユトリロが亡くなった日です。

有名なフランスの画家ですが、世間に名が知られるるまでには……いや、画家として大成しても相当な苦労をした人。

彼の胸中には、常に「孤独」と、それを紛らわすための「酒」がありました。

いくら富や名声を得ても、自身の心が枯渇していれば、何をどうしたって安息の日々は来ないものですが、モーリス・ユトリロは一体どんな生涯を過ごしたのか。

振り返ってみましょう。

母親であるシュザンヌ・ヴァラドンによるモーリスの肖像画/wikipediaより引用

 


幼児期に酒を飲まされてアル中に

モーリス・ユトリロは、人生のスタート地点からして普通じゃありません。

私生児かつ父親が不明、さらに母親が育児放棄して祖母に育てられるという、なかなかキツい展開だったのです。

しかもこの祖母というのが酒好きであり、幼いユトリロにまで飲ませたという、とんでもないばーちゃんでした。

その影響でしょうか。ユトリロは2歳の頃にてんかんの発作を起こし、成長してからも後遺症が残ったとされています。

こうしてハードモードにもほどがある人生が始まったユトリロは、他の子供たちとはあまり馴染めず、積極的に学校へ通うこともできなかったようです。

母のシュザンヌ・ヴァラドンが画家として成功し、新たな恋人と結婚してからは、ようやくユトリロの生活と精神状態も安定したのか。

違う学校に入って成績も上がっていきました。

また、幼少期から母のモデルにもなっています。

母シュザンヌによるデッサン(モーリス・ユトリロ7歳のころ)/wikipediaより引用

しかし「三つ子の魂百まで」という言葉があるように、幼い頃の嫌な経験や習慣は、自他ともに気づかないような深いところへ影響を及ぼすものです。

ユトリロの場合、祖母の与え続けたアルコールが、心身を苦しめました。

現代の日本でいえば高校生の段階でアルコール依存症になってしまったようで。

「アブサン」という強いお酒と出会ってしまったことも不運でした。

アルコール度数が70%前後もある元々は薬酒として作られたお酒で、当初は薬効を期待していたのかもしれませんが、常飲していたら体に悪影響がでるのは自明の理ですよね。

仕事に就いても数ヶ月しかもたず、医師に見せても依存症状が改善せず。

母親も随分気を揉んだことでしょう。とにかく幼い頃の環境が最悪でした。

 


19歳で水彩画を描き始め 独自の魅力を育む

どうにかこうにか酒から遠ざけさせるため、シュザンヌは息子に絵を描かせるようになりました。

自分も画家だからこそ「熱中している間は他のことを考えられなくなる」という経験があり、息子にもこれを体験させれば酒を忘れられるかも、と考えたのかもしれません。

シュザンヌは、ロートレックやルノワールとも親交がありましたので、彼らや画壇の仲間たちから「息子さんに絵を描かせてみたら」と勧められた可能性もありますね。

幸い、その狙いは当たりました。

ユトリロは一心不乱に絵を描くようになり、独学ながらも見事な筆致でモンマルトルやパリ郊外の景色を表していきました。

1903~1907年頃は「モンマニー時代」と呼ばれる作風の時期です。

モンマニーはパリ郊外の地名で、そこの景色を多く書いたことからきています。

この時期は油絵の具の分厚さを感じるような作品が多く、粗さとも採れる筆致が味を生んでいるように見えます(個人の感想です)。

続く1907~1914年ごろは「白の時代」と分類されています。

文字通り白を多用した絵が多い時期で、建物の外壁をリアルに表現するため、壁材として使われる漆喰を絵の具に混ぜて使ったのだとか。

これは彼が独学であるゆえに、発想の柔軟性が保たれていたからこそできたことなのでしょう。

白の時代には名所として知られるノートルダム大聖堂やその他教会なども描いていますが、より日常に近い小道や住宅街なども好んで描いていました。

ノートルダム大聖堂

彼の時代はまだカラー写真というものがなかったのですけれども、当時のフランス都市部の空気がうかがえるような、そんな絵が多いように思います。

さらにその後は「色彩の時代」とされ、より鮮やかな色を用いるようになりました。

これ以前のユトリロはどちらかというと濁りを含んだ色を多く使っていたのですが、色彩の時代ではより清色に近い色を広い面積で使うようになるのです。

 


才能は開いても絵だけでは食えず

気分によって真剣になったりならなかったり、病状が改善したり悪化して入院したり。

いくらか調子のムラはあったようですが、絵を描き続けているうちに、ユトリロは穏やかさを取り戻したようです。

シュザンヌも安心したでしょう。

シュザンヌ・ヴァラドン/wikipediaより引用

ただし、才能は花開いていても、残念ながら絵の買い手はなかなかつかず、金銭的に安定していたとはいえません。

収入を補うため採掘場へ行ったこともありましたが、アルコール依存症の発作か、大暴れして警察のお世話になってしまったそうで。

別件で「春先になると増えるアレな感じの罪」もやってしまったこともあるようで、自分の意志ではどうにもならないほど、アルコールを手放せなくなっていたのでしょう。

1914年には母のシュザンヌが、ユトリロとほぼ同年代の友人ユッテルと恋に落ちたことなども、彼がアルコール依存症を脱却できなかった一因だと思われます。

祖母にも母にも、友人にも捨てられるような形になった彼が、ますます酒に溺れるのも無理のない話でしょう。

余談ですが、アルコール依存症の要因は半分が遺伝とのことで、祖母がほぼアルコール漬けだったユトリロの場合、遅かれ早かれ発症していたのかもしれません。

とはいえ、乳幼児のうちから飲ませるのはどう考えてもダメなわけで。

よく生きながらえたものです。

ちなみにこの時期といえば第一次世界大戦ですが、ユトリロは徴兵されたときの医師により不合格とされ、軍に入らずに済みました。

現代人からすると「戦争に行かなくてよかった」と思えますが、当時は

「国のために役に立てないなんて情けない男!」

という価値観の時代。

ただでさえ精神的に不安定で、酒に頼りがちだったユトリロにとっては何重にも苦しんだと思われます。

それもあってか、1916年8月~11月には入院し、1918年頃にも精神病院への入退院を繰り返していたようです。

この頃の精神医学は未発達もいいところなので、彼にとって適切な治療はできていなかったでしょうし、その状態が長引くのも宜なるかなというところ。

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