画家

祖母に飲まされた酒でアルコール依存症に苦しんだモーリス・ユトリロの画家人生

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やはりアルコール依存症に悩まされ

作者の精神状態とは裏腹に、やがてユトリロの作品の価値が世間に認められ、絵からの収入が増えていきます。

1923年にはパリの一流画廊で個展を開催。

レジオン・ドヌール勲章を1928年に受けると、1936年には画商と専属契約を結ぶまでになりました。

しかし、それまで自由奔放に描いてきた彼は、他の画家のように「発注に基づいて描く」という概念がありませんでした。

そのため、ここにきて「依頼を受けて描く」ということにかなり戸惑ったようです。

そのストレスでか、またしてもアルコール依存症からくる心身の不調に苦しめられることになります。

幸い、新しくかかった医師も絵を描くことを勧めてくれたので、絵が彼の正気を繋ぎとめていたと思われます。

それでも、やはりアルコールを手放すことはできませんでした。

とはいえ、何事にも悪い面があれば良い面もあるもの。

アルコールが彼を生涯悩ませたことは疑いようのない事実ですが、同時に感性の引き金でもありました。

ユトリロは1935年に歳上の女性と結婚しているのですけれども、アルコールを控えるようになった代わりに、画風がまるで変わってしまったのです。

完成度にこだわるようになったという見方もできますけれども、若いころの作品と比べてあまりにも変わりすぎています。

この奥さんのことは詳しく伝わっていないようなのですが、彼女は熱心なユトリロファンであり、画風や生活など、ユトリロの何もかもに口を出すという感じだったようで……。

発注を受けるよりも息苦しい生活・制作環境だったであろうことは想像に難くありません。

 


妻と共にモンマントルの墓地で

1938年には母シュザンヌが亡くなります。

モーリス・ユトリロは葬儀に出られないほど嘆き悲しみ、その後から、異様なほどキリスト教への信仰が深まったとされています。

自宅の中に礼拝堂を作り、何時間も祈ることが珍しくなかったそうで。

こうしてみると、ユトリロには現代でいうところの「過集中」がたびたび出ていたのかもしれません。

アルコール依存症になってしまったのも、アルコールに対する過集中といえなくもなさそうですし。

その後はアメリカにも彼の名が知れ渡り、ニューヨークで個展が開かれたり、ユトリロの贋作を作る者が現れたりもしました。

芸術家は一風変わった人生を歩んでいることが多いですが、こうして見ると

「誰にも言えない何かを吐き出すために、芸術の道に入った」

というケースが多いのかもしれませんね。

そのための方法にすら口を出された晩年のユトリロの心中は、常人には察することすら難しいものです。

彼は今、妻とともにモンマントルの墓地で眠っています。

パリにあるサン=ヴァンサン墓地の墓標(妻と共に眠る)/photo by Airair wikipediaより引用

果たして穏やかに眠れているのかどうか……。いや、下衆の勘繰りですかね。


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長月 七紀・記

【参考】
モーリス ユトリロ/千足伸行『ユトリロ (新潮美術文庫 46)』(→amazon
日本大百科全書(ニッポニカ)

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