天和元年(1681年)11月22日は、沼田藩主の真田信利が改易された日です。
姓名からピンと来られた方もおられましょう。
この方はドラマ『真田丸』の主人公・真田幸村(信繁)――その兄である真田信之の孫にあたり、つまりは真田昌幸のひ孫になりますね。
ただし、長庶子※系列だったために、話がこじれていくわけで……さっそく本題に入りましょう。
※長庶子……正室ではない女性から長男
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庶子とはいえ自分は信之の血筋である!
真田信利は、信之の長庶子である父・信吉の代から、真田本家の松代藩ではなく、分領である沼田を持っていました。
信吉の次は、信利の兄・熊之助が継承。
この熊之助が幼くして亡くなったため、真田信利が沼田を引き継いだのです。
しかし、信利も当時三歳だったため、信之の次男かつ嫡子である信政(信利から見ての叔父)がしばらく沼田の政治を執り行いました。
真田信之が引退すると、信政は本家の領地・松代藩を継ぎ、信利が沼田を継ぎます。
そして、その二年後に信政が亡くなったあたりからややこしいことになりました。
信之がまだ存命中だったので、まず松代藩は信之の判断を仰ぎ、信政の子・真田幸道に跡を継がせることにします。
幕府へもそのように届け出ています。
しかし!
これに不服を申し立てたのが信利でした。
幕府としては遺恨を残したくない
信利は、自分が松代藩を継ぐべきだと主張。
この時点で自身は23歳、幸道はまだ1歳でしたので、年齢や「庶子とはいえ、自分はお祖父様の長子の血筋である」ということを主張したのでしょう。
信利の正室の実家や幕府のお偉いさんもこれをもっともと思い、信利側についたのですが、幕府は最終的に幸道の相続を認めました。
おそらく、信之から見て側室(庶子)系列か、正室(嫡子)系列かを重視したと思われます。
とはいえ、相続争いを強引に決めて禍根を残したくないのは幕府も同じ。
アフターケアとして、幕府は沼田を独立した藩にして、信利に溜飲を下げさせようとしました。
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