明治三十七年(1904年)9月26日、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが亡くなりました。
『怪談』で有名な人ですね。
そうなると、いかにも日本の古典や文化風習にまで精通している怖い話マニアのような印象もありますが、実際は英語教師のお雇い外国人(ときに記者)として暮らしています。
それがなぜ来日して帰化して、さらに骨まで埋めることになったのか?
意外と知らない小泉八雲の生涯を振り返ってみましょう。
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ギリシャ生まれアイルランド育ち
彼は1850年6月27日、現在のギリシア領イオニア諸島(レフカダ島)で生まれました。
当時はイギリス領だったので、国籍的にはイギリス人ということになります。
血筋的にはお父さんがアイルランド人、お母さんがギリシア人。
そして2歳の頃アイルランドのダブリンに引越したのですが、お母さんが病気になってしまったため、両親が別れてしまいました。
その後、彼は親戚の家でカトリックの影響を受けて育ちます。
しかし、預けられた先がかなり厳しい家だったようで、かえってキリスト教が嫌いになってしまったとか……。
ファーストネームの「パトリック」(アイルランドの守護聖人の名前)をあえて使わなかったくらいですから、よほどトラウマになっていたのかもしれませんね。
結局、1869年には英国の名門・聖カスバート校を中退して渡米。
様々な下働きをしながら、地方紙『アイテム』の新聞記者として働くことになりました。
本の評論から報道記事まで、幅広いジャンルを書くことができたそうです。
ライターとしては実に羨ましい限り。
来日後は松江で教師を
来日したのは明治二十三年(1890年)のことでした。
アメリカの出版社の人間として来たのですが原稿料で揉めて契約が流れ、しかし日本を気に入ったようで職を得て移り住みます。
最初は島根県立松江中学の英語教師でした。
月給は100円。
ちょうどネイティブの英語教師が必要とされていた時期でしたので、需要と供給がマッチしたのでしょうが、ハーンを紹介したのがあのチェンバレンってところが、いかにも当時の雰囲気ですね。
チェンバレンは『古事記』を英訳した英国人なのです。
※以下はチェンバレンとウェイリーの関連記事です
世界で初めて『源氏物語』を英訳したウェイリーと『古事記』英語版のチェンバレン
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一つ気になるのはハーンが松江時代に残した言葉です。
「日本の学生はほとんど独創性がない」
現代でもよく言われることで、当時からそうだったとは耳に痛い言葉。
「みんな一緒であるべき」という日本人社会の抑圧が、人々の性格に影響してきたのかもしれません。
なお、この頃のハーンは授業を終えて帰宅すると、和服に着替えて縁側でボーッとしていることが多かったと伝わっています。
しかし著作活動はガンガン進め、同時に旅をしていたので、凄まじくエネルギッシュな方なのは間違い無さそうですね。
そのときの紀行文は『知られぬ日本の面影』として書籍になっています。
スマホでKindle版を読めますので、シルバーウィークの最終日をゆっくり過ごしたい方はどうぞ。
新たな日本人観に触れられるかもしれませんよ。
明治二十四年(1891年)には、日本での転機を迎えます。小泉セツという女性と結婚したのです。
一体この女性は?
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