世の中にはたびたび規格外というか化け物というか。
「”強くてニューゲーム”のデータだろお前」と言いたくなるような人がいます。
突出した面については頭の良さだったり、超人的な身体能力だったりいろいろありますが、中にはそれ以外の面でコメントに困ることもあったりして……。本日はそんな感じのお話です。
1982年(昭和五十七年)12月18日は、旧ドイツ軍の伝説的パイロットの一人であるハンス・ウルリッヒ・ルーデルが亡くなった日です。
独ソ戦で活躍したため、その戦果から“ソ連人民最大の敵”ともいわれています。
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当初は戦闘機乗りを目指していたが、爆撃機へ配属
ルーデルは1916年、現在のポーランド~チェコ領にまたがるシュレジェンという地域に生まれました。
ここから遡ること150年ほど前、マリア・テレジアとフリードリヒ2世が領有をめぐって争った地域です。
20世紀初頭の時点ではドイツ領でした。
少年ルーデルは、母親にパラシュートのおもちゃをもらったことから空軍に興味を持ったといいます。
長じた後は当時100倍もの倍率だった空軍学校に現役で合格してしまったのですから、三つ子の魂百までというかなんというか……。
当初は戦闘機のパイロットを目指していたそうです。が、当時のドイツは爆撃機のパイロットが欲しかったので、ルーデルもそちらに配置されています。
ややこしい話ですが、戦闘機=飛行機同士で戦うための飛行機、爆撃機=地上に爆弾を落とすための飛行機という違いだそうです。
国や時代ごと、さらには機体の構造によって区分けが違うので、厳密には違いますが、イメージとしてはそんな感じです。
戦国時代に例えれば、戦闘機が騎兵で爆撃機が弓兵みたいな感じでしょうか。文明のレベルが大分違いますが、こまけえこたぁ……。
バルバロッサ作戦から快進撃は始まった
ルーデルの戦果があまりにも有名なので意外ですが、実は彼は第二次世界大戦の前半はまだ訓練中~訓練終了直後だったために実力を認められておらず、予備人員として地上で待機していました。
そのため、バトル・オブ・ブリテンには参加していません。
もしもルーデルがもう少し早く生まれていて、バトル・オブ・ブリテンに参加していたら、戦況が変わっていたかもしれませんね。
本人も相当悔しかったらしく、日記に「悔しくて泣いた」と書いたこともありました。
ルーデルが実戦に参加したのは、独ソ戦の緒戦であるバルバロッサ作戦(1941年6月)からでした。
ここからスターリンに名指しで”ソ連人民最大の敵”とまで言われる、彼の快進撃が始まります。とはいえ、ルーデルが乗っていた飛行機は二人乗り(複座)だったので、パイロットであるルーデルだけでなく、射撃を担当する相棒の腕前も加味して考えなくてはいけませんが。
ルーデルは当初転属が多かったこともあり、ずっと同じ人と組んで飛んでいたわけでもありません。相棒の知名度がイマイチなのはこのためかと思われます。
大ケガしてもすぐに出撃! まさしくゲームの主人公です
上記の通り、ルーデルはしばらくの間「出撃したくてもできなかった」時期があったため、作戦に参加するようになってからのヤル気が段違いでした。
なんせ1941年中の出撃回数が400回超!
どこから数えているのかがはっきりしないのでアレですが、少なくとも大部分は独ソ戦が始まってからのはずですから、実質的には約半年で400回ということになるわけで……。化け物かっ!
さらに「できるだけ多く出撃するために書類を偽造した」「撃墜されて大怪我をして帰ってきたのに、またすぐ出撃しようとした」などなど、「RPGの主人公かアンタは!」とツッコミたくなるような言動が伝わっています。
ドイツ降伏の少し前、1945年2月には右足を失うほどの大怪我をしたにもかかわらず、義足を装着してさらに出撃を続けていたほどです。
ちなみに、旧日本軍の兵士にも似たような感じの人がいます。こんなの絶対おかしいよ!
あまりにもルーデルの戦意が落ちないので、例のちょび髭が「キミがやられると士気に関わるから、地上勤務に移れ」(超訳)と言ったものの、全く聞かなかったそうです。なかなかの度胸ですね。
というか、仕事がデキるのに左遷させられるなんて理不尽ですものね
「我々は物量の重圧に屈しただけであり、囚人ではない」
ルーデルは一時転属でオーストリアに行った時、父親のすすめで結婚しています。
翌年子供も生まれているのですが、その間に出撃回数が650回を超え、その後もだいたい半年に500回のペースで出撃していたといわれています。
撃墜した敵飛行機の数を数えるのもアホらしいほどですが、その他に戦車の撃破数は4年で500両だそうで。マジ化け物だ(確信)
むろんこれほどの出撃回数と戦果だけに、数々の表彰もされています。
ちょび髭直々にドイツ最高の勲章・黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章を授与されていた他、枢軸国側だったハンガリーからも最高の勲功メダルを贈られています。これはハンガリーにとって唯一の外国人受賞者でもありました。
1945年5月7日のドイツ降伏時はまだソ連との交戦中でしたが、ルーデルは他の部隊と一緒に戦線を離脱し、アメリカへ降伏しています。
しかしドイツ人としての誇りは忘れず、「我々は物量の重圧に屈しただけであり、囚人ではない」と毅然とした態度だったといいます。
その直後に「ま、そんなことはどうでもいい。シャワーと食べ物がほしい」とも言っているあたり、ユーモアもうかがえますが。
戦車など車両の撃破数は1000以上
最終的な出撃回数は2530回。
戦車など車両の撃破数は1,000以上。
軍属船の撃沈数70以上。
航空機の撃墜数9。
まさに無双状態でしたが、ルーデルは仲間の評価を上げるために戦果を譲ったり、入院中にこっそり出撃したことがたびたびあったため、実際はもっと多いといわれています。
……化け物という言葉すら役不足に思えてきました。
12月17日の記事でリアル・ゴルゴ13「シモ・ヘイヘ」の身も蓋もない発言をご紹介しましたけれども、ルーデルも同様の言葉も残しております。
白い死神と呼ばれた凄腕スナイパー「シモ・ヘイヘ」 まさにリアルなゴルゴ13
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戦後「なぜ、あれだけ多く出撃し、生き残ることができたのですか?」と問われ、「私には、これといった秘訣はなかった」という信じがたい発言をしています。いやいや……?
当時のドイツ軍の化け物レベルなパイロットがルーデルだけではないということ、それでも戦争に負けてしまったことはもっと恐ろしいですが、まあ……戦争は個人プレーじゃないですからね。
戦後は、スポーツをたしなみ、28歳年下と再婚
ルーデルは戦争犯罪に該当するようなことはしていないと判断されたため、裁判にかけられることはありませんでした。
そして戦後は輸送関係の仕事をしたり、アルゼンチン政府から非公式に招待されて航空技術研究所や同国の空軍士官学校で働いたりしています。
義足になったにもかかわらず、テニス・水泳・スキー・登山など、スポーツも愛好していたとか。
1953年には西ドイツへ帰国、1965年に28歳年下の女性と再婚するというリア充っぷり。
再婚の5年後には脳卒中を起こしながらも、再びスポーツを楽しめるほどに回復してもいます。……もうツッコむの疲れた(´・ω・`)
ルーデルが亡くなった時、よからぬ連中が大騒ぎをしたこともあって、「英雄」の割には墓所が公表されていません。
時勢の変化によっては、生誕100周年か死去100周年などのタイミングで公表されるかもしれませんが……まあ、私達が生きている間はちょっと難しそうですね。
長月 七紀・記
【参考】
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル/Wikipedia