昭和18年(1943年)10月16日は、大正天皇の生母・柳原愛子(なるこ)が亡くなられた日です。
この時代、生母だからといって偉くなれるわけではありません。
彼女は臣下として明治天皇に仕え、子供を授かったというだけで、妃や皇后になることはできなかったのです。
生母と書面上の母が違うというのは現代人にはしっくり来ませんが、昔から公家や武家の間ではよくあること。
むろん、愛子の出自は由緒正しい家です。
そうでないと、そもそも天皇と直接顔を合わせるような女官になれませんからね。
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鎌倉時代から続く家柄
柳原家は鎌倉末期から続く家で、戦国時代には武士に所領を取られてしまっていました。
しかし、因幡(現・鳥取県東部)の領地だけは残っており、京から現地へ下向して生き延びたといいます。
こういう家はいくつか例があり、例えば四国の一条家が注目されたりしていますね。
江戸時代の柳原家は、武家伝奏や議奏(ぎそう)などの要職に就く人もいました。
武家伝奏は幕府との連絡役で、議奏は天皇と公卿(公家の中で特に位が高い人たち)の連絡役です。
議奏は当番制ですが、必要に応じて全員出仕することもあり、なかなか忙しい役職でした。
お出かけのお供はもちろん、他の高官よりも天皇の日常生活に関わることが多かったため、天皇の素顔を知る人々ということもできます。
侍従よりももう少し政治よりの役職というイメージでしょうか。
そうした家に生まれた愛子は、11歳のときに仕え始め、掌侍(しょうじ)、権典侍(ごんのてんじ)と昇進していきます。
掌侍は皇后の世話役、(権)典侍は宮中の女官たちのトップです。
「権」は定員より多い場合につけられるもので、仕事の内容は同じでした。
ちょっと時代がズレますが、江戸城の大奥でいえば掌侍が御中臈、典侍が御年寄にあたるでしょうか。
平安時代の女官については、以下の記事にまとまっていますので、よろしければご参考までに。
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女官としての呼び名「梅ノ井」「早蕨典侍」
愛子は明治八年(1875年)に最初の出産をしているので、16歳までに明治天皇のお気に入りになったと思われます。
明治天皇は愛子より7歳上ですから、当時の感覚としてはまあ普通でしょうか。
といっても、これより先に生まれた明治天皇の子供は死産だったため、ただ単に「丈夫な子供を産める女性」を探して……かもしれませんね。その辺は君主としての義務だから仕方ありません。
明治天皇は昭憲皇太后を「天狗さん」と呼ぶなど、あだ名をつけるのが好きという珍妙な趣味がありましたが、愛子にはそれがないようです。
代わりに(?)女官としての呼び名「梅ノ井」「早蕨典侍」が伝わっています。
「早蕨(さわらび)」は文字通り芽を出したばかりの蕨のことです。
着物の色合わせ(襲の色目)の名や源氏物語の巻名にもある、風流な単語ですね。
着物の場合は表が紫、裏が青(現代語では緑)という組み合わせ。
どちらかというと蕨より菖蒲(あやめ)や杜若(かきつばた)のほうが近い気がしますが、凛とした美しさを感じられる配色でしょうか。
もしかしたら、明治天皇が愛子に一番似合う色目として選んだのかも……浪漫ですね。
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