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【柳原愛子】
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43才で女官たちのトップに立った
愛子は三人の子供を産み、成長したのは後の大正天皇である明宮嘉仁親王だけでした。
しかし、その後も明治天皇の子供は幼いうちに亡くなっております。
もしかしたら、明治天皇の皇子女の多くが脳膜炎という病気で亡くなったといわれているので、この病気に弱い体質が遺伝してしまったとか……。
そもそも当時の乳幼児が成人になれる可能性はかなり低かったというのもあります。
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そう考えると、この時代は密かに皇室存続の危機だったことになりますね。
愛子にとって20歳で大正天皇を産んだのが最後の出産でしたが、その後も宮仕えを勤勉に続け、43歳で典侍として女官たちのトップに立ちます。
もう一人、高倉寿子という女性が典侍を務めていたので、二人で分担することも多かったでしょうね。
また、彼女にかぎらず、ある程度地位の高い女官は新入りの生活指導をすることになっていました。
この世話役のことを「お世話親」といったそうです。愛子がお世話親になった人の多くが後々まで感謝をしているあたり、かなり気配りのできる優しい人だったと思われます。
実母が愛子と知ったとき……
皇太子時代の大正天皇の妃として貞明皇后が宮中に入った際、愛子は教育係の一人でした。
「実の母とも思った」というほど愛子に感謝しておりますから、本当に優しく指導してくれたのでしょう。
貞明皇后はその恩を後年まで感謝し、大正天皇が亡くなる間際には特別に見舞いに来られるよう計らっています。
また、愛子の米寿(88歳のお祝い)には布団を送ったり、愛子が亡くなった際、自ら信濃町の屋敷を訪れ、手をとって感謝を述べたといいます。いい話や……。
一方、大正天皇はある程度成長するまで「母は昭憲皇太后」と教えられていたため、実母が愛子だと知った際、かなりのショックを受けたとか。
まぁ、一般人でも「実はお前のお母さんは、あのAさんなんだよ」とか言われたらショックですものね。
しかし、昭和天皇が6歳までに30回も愛子に会いに行ったという記録があるため、大正天皇のわだかまりも解けたのでしょう。
だからこそ、貞明皇后も何をおいても最期に親子の時間を過ごして欲しいと思ったのかもしれません。
いつの時代も、生まれる順番と死ぬ順番が逆行するほど悲しいものはありませんしね……。
以前の記事で「大正天皇は日本初のマイホームパパ」というようなお話をさせていただいたのですが、そこには実母である柳原愛子の影響があったのかもしれません。
身分の問題はさておき、女官の多くに慕われて、皇后も世話になったような人が母親なのだということを、きっと誇らしく思ったでしょうから。
そういう人ともっと早く親子として接することができていたら……という思いが、しきたりを守るよりも家族との繋がりを重視する下地になったのではないかという気がします。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
【昭和天皇実録公表】/産経新聞
柳原愛子/wikipedia
柳原家/wikipedia