昭和3年(1928年)2月7日は、九条武子の命日です。
といっても九条というのは結婚後の姓で、彼女は大谷家に生まれました。
あの西本願寺の法主を代々務めてきた家柄です。
お寺で「お嬢様」というのも何だか違和感がありますが、良い生まれ育ちであることは間違いないですね。
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美貌と賢さを併せ持ち 京都女子大学を設立
幼い頃から仏の教えを間近に聞いて育ったであろう武子は、美貌と賢さを併せ持つ女性になりました。
義理の姉(兄嫁)とともに仏教婦人会を創設したり、京都女子専門学校(現在の京都女子学園・京都女子大学)を設立したり。
その頃、女性の高等教育機関はキリスト教関係のものが多かったため、西本願寺出身の武子としては「仏教に基づいた女子教育が必要」と考えていたようです。
また、歌人の佐佐木信綱に和歌を学び、自分の詩集も出していました。
美貌のほうも「大正三美人」とまで呼ばれるほどでしたので、文字通りの才色兼備というやつです。
それだけに婿選びは慎重に行われたらしく、明治四十二年(1909年)に九条家の良致と結婚しています。
武子、このとき22歳。
当時としてはやや遅めの結婚ですね。
良致は貞明皇后(大正天皇の皇后)の異母弟でもあり、皇室を除けばこれ以上ないほどの家柄と言っても過言ではありません。
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渡英した夫はそのままロンドンに10年滞在する
しかし、新婚三ヶ月後に夫が突如「ヨーロッパで天文学を学びたい」と言い出し、ケンブリッジ大学に通うことになったため、武子も共に渡英します。
一応ロンドン郊外で同居はしていたそうなのですが、義理の姉と共に地中海周辺を旅行していたり、武子だけ先に帰ってきたり、なんだか怪しげな感じです。
さらに、良致はよほどイギリスが気に入ったらしく、そのまま10年も滞在。
武子はほぼ8年間、夫に放置されてしまうのです。
現代だったら真っ先にゴシップ誌のネタにされたり、性格の不一致等々で離婚になるでしょうね。
周りから離婚を勧められてもおかしくないところですが、武子はそのつもりがなかったらしく、夫の帰国を待っていました。
その間の和歌には、今か今かと夫を待っている節がうかがえるものが複数あります。
一方、良致からの手紙は8年間でたった二通だったとか……百歩譲って「本当はもっと出していたが、郵便事故で届かなかった」と考えても少なすぎますよね。
前述の学校設立に取り掛かったのが良致不在中のことなので、仕事が慰めになったかもしれません。
あるいは、下田歌子のように、直接ヨーロッパの女性たちを見て、「日本の女性もこのようにしっかりした教育を受けたほうがいいのでは」と考え、夫と相談の上で先に帰国した可能性もありますね。
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こちらのほうが辻褄が合う感じはしますし、少なくとも不幸な人がいないことになるので、そうであってほしいところです。
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