天正十年(1582年)6月3日は、魚津城の戦いが終結した日です。
上杉軍の籠もる同城を織田軍(柴田勝家)が攻撃していたのですが、注目はその前日。
1582年の6月2日と言えば?
そうです、京都で【本能寺の変】が起きてました。
もしもその一報が魚津城(富山県魚津市)にも届いていたら、おそらく形勢は一気に逆転し、柴田勝家は背後を襲われ討たれていたかもしれません。
が、歴史にIFは無し。
上杉軍の将たちは悲しき最期を迎えます。
一連の動きを振り返ってみましょう。
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信玄無き武田も、謙信無き上杉も
そもそも魚津城は15世紀頃に建てられ、上杉謙信の代から上杉家の支城となっていたところでした。
当時、上杉家の本拠であった春日山城からすると、魚津城は京都へ行き来する道中の要。
だからこそ、織田軍もここを遮二無二攻めています。
地図で確認するとわかりやすいでしょう。
右から赤い城を見ていきますと
右◆春日山城
中◆魚津城
といった具合で当然ながら上杉方です。
一方、織田方の城は左側の黄色い拠点で
左◆北ノ庄城
となります。
北ノ庄城は、柴田勝家の本拠地。
いわゆる方面軍の北陸を担当し、上杉へと進軍しておりました。
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そんな勝家率いる織田軍が魚津城への攻勢を開始したのは、天正十年(1582年)3月のことです。
勝家は、かつて上杉謙信とぶつかった【手取川の戦い】で完膚なきまでに叩かれ、雪辱を晴らしたい気持ちも強かったでしょう。
3月11日には、織田の天敵だった武田も滅亡。
信長の嫡男・織田信忠を中心とした甲州征伐が実施され、当主・武田勝頼は自刃していました。
勝家らも富山城を奪い取っており、武田と上杉は同時に織田家の攻略に屈しつつありました。
偶然って怖い……といいたいところですが、織田家にしてみれば
「龍虎といわれた武田・上杉を同時に打てば、関東や奥羽への大きな牽制になる」
ぐらいは計算していたでしょう。
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魚津城内3,800 織田包囲軍40,000
むろん精強で知られる上杉軍だって、簡単にやられる訳にはいきません。
魚津城内は3,800、対する織田軍は4万ほどの兵力があったとされています。
基本的に、準備が整っていれば籠城戦は城方が有利になりますが、圧倒的な兵数の差もあり、支えきれなくなるのは時間の問題。
そのため、すぐに上杉景勝へ救援を求めています。
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しかし、景勝は動けませんでした。
まだ信濃・上野(現在の長野・群馬県)には織田軍が残っており、越後内でも怪しい動きを見せる者がいたからです。
すると……。
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