魚津城の戦い

上杉景勝(左)と織田家の柴田勝家/wikipediaより引用

武田・上杉家

本能寺での出来事を知らずに陥落した魚津城の戦い~上杉武将達の哀しき切腹

天正十年(1582年)6月3日は、魚津城の戦いが終結した日です。

上杉軍の籠もる同城を織田軍(柴田勝家)が攻撃していたのですが、注目はその前日。

1582年の6月2日と言えば?

そうです、京都で【本能寺の変】が起きてました。

もしもその一報が魚津城(富山県魚津市)にも届いていたら、おそらく形勢は一気に逆転し、柴田勝家は背後を襲われ討たれていたかもしれません。

が、歴史にIFは無し。

上杉軍の将たちは悲しき最期を迎えます。

一連の動きを振り返ってみましょう。

 


信玄無き武田も、謙信無き上杉も

そもそも魚津城は15世紀頃に建てられ、上杉謙信の代から上杉家の支城となっていたところでした。

当時、上杉家の本拠であった春日山城からすると、魚津城は京都へ行き来する道中の要。

だからこそ、織田軍もここを遮二無二攻めています。

地図で確認するとわかりやすいでしょう。

右から赤い城を見ていきますと

右◆春日山城

中◆魚津城

といった具合で当然ながら上杉方です。

一方、織田方の城は左側の黄色い拠点で

左◆北ノ庄城

となります。

北ノ庄城は、柴田勝家の本拠地。

いわゆる方面軍の北陸を担当し、上杉へと進軍しておりました。

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そんな勝家率いる織田軍が魚津城への攻勢を開始したのは、天正十年(1582年)3月のことです。

勝家は、かつて上杉謙信とぶつかった【手取川の戦い】で完膚なきまでに叩かれ、雪辱を晴らしたい気持ちも強かったでしょう。

3月11日には、織田の天敵だった武田も滅亡。

信長の嫡男・織田信忠を中心とした甲州征伐が実施され、当主・武田勝頼は自刃していました。

勝家らも富山城を奪い取っており、武田と上杉は同時に織田家の攻略に屈しつつありました。

偶然って怖い……といいたいところですが、織田家にしてみれば

「龍虎といわれた武田・上杉を同時に打てば、関東や奥羽への大きな牽制になる」

ぐらいは計算していたでしょう。

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魚津城内3,800 織田包囲軍40,000

むろん精強で知られる上杉軍だって、簡単にやられる訳にはいきません。

魚津城内は3,800、対する織田軍は4万ほどの兵力があったとされています。

基本的に、準備が整っていれば籠城戦は城方が有利になりますが、圧倒的な兵数の差もあり、支えきれなくなるのは時間の問題。

そのため、すぐに上杉景勝へ救援を求めています。

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しかし、景勝は動けませんでした。

まだ信濃・上野(現在の長野・群馬県)には織田軍が残っており、越後内でも怪しい動きを見せる者がいたからです。

すると……。

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