魚津城の戦い

上杉景勝(左)と織田家の柴田勝家/wikipediaより引用

武田・上杉家

本能寺での出来事を知らずに陥落した魚津城の戦い~上杉武将達の哀しき切腹

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
魚津城の戦い
をクリックお願いします。

 


降伏してでも生き残ってほしい

景勝は魚津城へ「降伏して良い」と書き送りました。

また、謙信の代からの付き合いである佐竹義重へは

「日本全土を手に入れようとしている相手に対し、越後一国で立ち向かって討ち死にできるなんて、私は果報者です」(意訳)

という手紙を出しています。

つまり、景勝は「自分が討ち死にするのは構わないが、魚津城の家臣たちには生き残ってほしい」と思っていたことになるわけです。

謙信があまりにも偉大すぎて「景勝(笑)」のような扱いをされることもありますが、この誠実さと清々しさが景勝最大の美点だったでしょう。

この二通の手紙を知ると、彼が関ヶ原後に120万石から30万石へ大減封となっても「召し放ち(リストラ)」をしなかった・できなかった理由もうなずけます。

魚津城の諸将も、景勝の気持ちはよくわかっていました。

そして、それ故に降伏できませんでした。

 


陥落! そして本能寺……

開戦からちょうど3ヶ月経った今日この日。

12人(あるいは13人)の上杉軍守将は皆揃って自刃し、織田軍が魚津城を攻め落とします。

この自刃のやり方がまた壮絶なものだったのですが、R18Gになるかもしれないので割愛にご理解を。ご興味のある向きは各自お調べください。

勝利に沸いていた織田軍は、しかしここで最悪の知らせを受け取ることになります。

本能寺の変です。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)/wikipediaより引用

慌てふためき、我先にと魚津城から退却する織田軍。

その後、上杉軍は、魚津城や周辺地域を奪還しました。このときの景勝以下の気持ちはいかばかりか……。

まぁ、清州会議で織田家が落ち着くと、今度は佐々成政によって攻め取られてしまうのですが。

童門冬二先生の『小説 直江兼続』(→amazon)の冒頭で、魚津城の戦いをめぐる景勝と兼続のやりとりが出てくるので、物語として楽しみたい方にはおすすめです。

大河ドラマ『天地人』……に触れるのはヤメておきましょう。

にしても、そろそろ景勝主役のドラマや映画が出てきてもいいんじゃないかと思うのです。

こうした場面は景勝という人間の内面が一番表に出ていて、映像化プリーズ!

本能寺の変が起きた後は、他に数多のビッグイベントが連続するため【魚津城の戦い】は忘れ去られがちです。

しかし、凄まじいエピソードもあり、もっとフィクションでも取り上げて欲しいんですけどね……。

現在、魚津城跡は小学校になっています。


あわせて読みたい関連記事

手取川の戦い
織田軍と上杉軍が正面から激突!手取川の戦いで謙信はどこまで勝家に大勝した?

続きを見る

柴田勝家
織田家を支えた猛将・柴田勝家の生涯~なぜ「鬼柴田」は秀吉に敗れたのか

続きを見る

織田信長
尾張の戦国大名・織田信長49年の生涯~数多の難敵と対峙し天下人になるまでの道

続きを見る

織田信忠
信長の跡を継いだ織田信忠 なぜ本能寺の変で自害に追い込まれた? 26年の儚き生涯

続きを見る

武田勝頼
信玄の後継者・武田勝頼37年の生涯~偉大な父を持った不運の境遇とその実力

続きを見る

武田信玄
武田信玄は最強の戦国大名と言えるのか? 戦歴を中心に振り返る53年の生涯

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
魚津城の戦い/wikipedia

TOPページへ


 



-武田・上杉家
-