慶長16年(1611年)6月24日は加藤清正の命日です。
実は誕生日も永禄5年(1562年)の同日6月24日という、少し珍しい方ですが、いやいや清正といえば他にもっと注目すべき事績がありますよね。
秀吉の子飼いとして武士となり、賤ヶ岳の七本槍に数えられたり、熊本城を築いたり。
将としての勇猛さはもちろん、秀吉を支えた厚い忠義なども讃えられ、今なお地元の熊本では「清正公(せいしょうこう)様」と崇められている。
そんな加藤清正は、実際、どんな活躍があったのか?
逸話も含めて、その生涯を振り返ってみましょう。

加藤清正/wikipediaより引用
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母と二人で育つ
加藤清正は永禄
5年(1562年)6月24日、足軽の子として生まれました。
幼名は虎之助。
父を早くに亡くしたため、母と二人暮らしでした。

加藤清正の生誕地碑(愛知県名古屋市妙行寺)/wikipediaより引用
幼いころから体格すぐれ、力も強かったという虎之助の強さを伝えるエピソードは数多く伝わっていますが、青少年期で有名なのは「八歳にして泥棒を斬った」という逸話でしょう。
――ある晩、虎之助の叔父の家に一人の坊さんがやってきた。
※この逸話では虎之助と母は共に叔父の家に住んでいた設定
そんな彼らにお坊さんは困った顔で頼みこむ。
「宿がありません。泊めて下さい」
お坊さんが一人で野宿とも慣れば物騒……と思いきや、正体は泥棒の頭であり、良からぬ企みを持っていた。
しかし親切な叔父は露とも気づかない。
「それはお困りでしょう。今日はここでお休みください」
なんの警戒心も持たない叔父と違い、『怪しい』と感じた虎之助は、鬼の面と刀を持ち、こっそり長持ちの中に潜む。
はたして泥棒の頭は、夜中になると手下どもを呼び寄せ、叔父と母を縛り上げると、ありったけの金目のものや長持ちを運び出そうとした。
しかし、長持ちに頭が手をかけたそのとき
「盗人が!待たんか!」
凄まじい勢いで虎之助が長持ちから飛び出し、たちまち手近にいた泥棒を斬ってしまう。
仰天した残りの泥棒たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていった――。
どうでしょう?
いかにも創作めいたエピソードですが、それでも虎之助が青少年期から力強かったことがうかがえる話ではありますね。
虎之助 清正になる
力強く、筋骨たくましい虎之助。
『きっと立派な侍になれるに違いない……』と母は思っていました。
この母が、秀吉(木下藤吉郎)の母・なか(大政所)と従妹の間柄だったのです。

秀吉母・なか(大政所)/wikipediaより引用
その縁を頼り、母子が秀吉を尋ねたのが元亀4年(1573年)、虎之助、九歳のときのこと。
ついに秀吉の家来となったのでした。
子供のなかった秀吉にとっても、虎之助は我が子同然に可愛い子飼いの家来だったのでしょう。
虎之助は十五の歳に元服し、清正と名乗ると、数々の手柄を立てていきます。
※以後は「加藤清正」表記で統一
特に、毛利との戦い(中国攻め)での活躍は目覚ましく、【冠山城の戦い】では一番槍の大手柄。
敵将の竹井将監(たけいしょうかん)と一騎打ちをして討ち取っています。
その最中に起きたのが、ご存知、本能寺の変でした。
賤ヶ岳七本槍の手柄
天正10年(1582年)6月2日、未明――。
本能寺に宿泊していた織田信長が、明智光秀に襲撃され、信長は敗死。

織田信長(左)と明智光秀/wikipediaより引用
事件を知った秀吉が、俗に【中国大返し】と呼ばれる行軍で京都へ戻り、【山崎の戦い】で光秀を打ち破ると、次に対峙することになったのが柴田勝家でした。
ご存知、織田家の快進撃を支えてきた猛将です。
ここでの加藤清正の活躍は、講談の中に生き生きと描かれています。
ざっと再現してみましょう。
勝家の大軍勢を見て、真っ先に突き進んでいった加藤清正。
「加藤清正、一番槍」
そう大声で名乗りを上げると、
「我こそ!相手にならん」
と、鉄砲頭の戸波隼人(となみはやと)が駆け出してきた。
清正は、苦もなくその首を取ると、なおも激しく突き立て、突き立て、大勢の敵を馬の蹄にかけていく。

加藤清正の馬印と旗印 /wikipediaより引用
そこへ一人の武将が現れた。
「おのれ、首を渡せ」
牙をむいて飛び出してきたのは山路将監(やまじしょうげん)。柴田軍で鬼と呼ばれた猛将である。
「そう言うおのれこそ、首を渡せ!」
かくして一騎討が始まると、互いに引けを取らぬ猛将同士、なかなか決着がつかない。
ついには「討ちもの技は面倒!組み討ちで来い!」と、互いにがっきと組み付き合い、同時に馬から落ちた。
その後も上になり下になり、跳ね返し、揉み合い、ついにはゴロゴロと坂を落ちていく。
と、ついに、崖の下で清正が上になり、その首を討ち取った――。
賤ヶ岳では優れた手柄を立てた者たち七人が「賤ヶ岳七本槍」と称され、今もその功績が称えられているのはもはや説明不要でしょう。
中でも清正はその筆頭。
秀吉から「主計守(かずえのかみ)」の位をいただくと、一躍、三千石の侍に出世するのでした。
領民に優しかった清正
賤ヶ岳の戦いを制し、その後も各地を制覇していった豊臣秀吉。
加藤清正は【九州征伐】での手柄を買われ、肥後の統治を任されました。

清正はとうとう大名になったのです。
肥後の土地は一揆が起こった直後で不安定な状態でしたが、清正は治水や農業政策にはじまり、商業政策などでも優れた手腕を発揮。
見事、この土地の統治に成功します。
清正は情け深い殿様として、領民からも慕われ、こんな話も残されています。
ある時、清正が道を通ると、目の不自由な女が道端に手をついていた。
女は自分一人でも大変な身でありながら、年取った母親を養うために物乞いをしていた。
気の毒に思った清正は、
「孝行な者に物乞いをさせるのは気の毒である」
として、幾分かの金をやることに。
それも盗まれる心配がないよう、名主に金を預け、少しずつ女に渡すようにした。
朝鮮出兵と伏見の地震
天正18年(1590年)、小田原征伐を果たした豊臣秀吉は、その支配を朝鮮から明まで伸ばさんとして、出兵の準備に取り掛かりました。
清正はじめ九州の大名たちが命じられたのが、肥前(現在の佐賀・長崎)に前線基地を設置すること。
それが名護屋城の築城です。

ドローンで空撮した名護屋城の本丸と遊撃丸
朝鮮出兵の兵数は10万単位であり、それに見合った築城ともなれば、当然ながら重い負担が課せられることになります。
【文禄の役】では、先手の大将を務めることになった清正、この時31歳、25万石の大名でした。
二番隊を率いよと命ぜられた清正は、一番隊を率いた小西行長(こにしゆきなが)とは別の進路で軍勢を進めると、豊臣軍は目覚ましい快進撃を見せてゆきます。
連戦連勝を重ね、兀良哈(オランカイ)まで攻め入ったのです。

加藤清正の進路(文禄の役)/wikipediaより引用
晋州(しんしゅう)での激戦では、清正は城壁を崩すために「亀甲(きっこう)車」という一種のタンクを考案したという話もあります。
車の上に牛の皮を、亀の甲の形に何層にも重ねて作ったもので、矢でも弾でも容易に破ることができない。
この中に家来を潜ませて城壁の下へ進ませ、石垣を崩すことに成功したのです。
しかし、この出兵中、思いもよらぬことが起きます。
あるとき清正公が突如日本へ呼ばれると、まったく見に覚えのない状況で理不尽にも謹慎の身となってしまったのです。
「武断派」の清正と、「文治派」の石田三成や小西行長の間で生じた溝が原因でした。

石田三成/wikipediaより引用
朝鮮・明との戦を終わらせたい小西行長と、それを支持する石田三成にとって、頑迷に秀吉の命に従おうとする清正は邪魔な存在でしかありません。
そこで「加藤清正が独断専行した」などと秀吉に訴え、清正を秀吉から遠ざけたのでした。
しかたなく屋敷に閉じこもっていた清正に、予期せぬ天変地異に見舞われます。
文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した【慶長伏見大地震】です。
推定マグニチュードは7.5。
伏見城天守や東寺、天龍寺なども倒壊し、死者は1,000人を超えたとされる大災害となりました。
このとき清正は、すぐさま二百人の家来を連れて秀吉の伏見城へ駆けつけたという逸話があります。
秀吉は庭へ避難して無事でしたが、清正が一番に駆けつけ平伏する姿を見て、その忠義に感じ入り、謹慎を解いたという話ですね。

地震加藤と呼ばれる逸話を描いた浮世絵(歌川芳虎作)/wikipediaより引用
秀吉の死、関ケ原の戦い
無謀であるとして批判の噴出していた豊臣秀吉の朝鮮出兵。
一度に懲りず、慶長2年(1597年)になると秀吉は、再び派兵を決定し、またもや加藤清正と小西行長が先鋒を任されました。
この【慶長の役】で最も熾烈な激戦として知られるのが【蔚山城の戦い(うるさんじょう)】です。
浅野幸長が守っていた蔚山城に、突如、押し寄せた数万の敵軍。

浅野幸長/wikipediaより引用
「幸長の父から、くれぐれも息子を頼むと言われている」として清正は、反対を押し切り、わずか三百の手勢を率いて援軍に駆けつけました。囲みを破り、蔚山に籠城したのです。
朝鮮・明連合軍の兵は56,000。
味方はわずかに13,000の兵でした。
しかも、食料も底を尽きていた。
それでも清正は「食べるものがなければ雪を食べろ。氷を噛め。壁土を食べても戦え」と檄を飛ばし、ついに城を防ぎきり、敵を撃退したのです。

蔚山城の戦いを描いた『蔚山籠城図屏風』/wikipediaより引用
しかし、その活躍が秀吉に認められることはありませんでした。なぜなら、この【蔚山城の戦い】の直後、秀吉が亡くなり、朝鮮出兵そのものが終わりとなったからです。
結局、二度にわたる無謀な試みは、豊臣政権に深刻なダメージを与えました。
加藤清正はじめとする武断派と、石田三成や小西行長などの文治派の対立が決定的となったのです。
戦場の働きこそ武士の本分と考える武断派。
官僚的な仕事に重きを置く文治派。
もともと主義主張が食い違う両派でしたが、清正も、三成や行長の讒言により謹慎処分させられたり、戦場での働きを悪く報告したりされたりして、不満は爆発寸前でした。
関ケ原の戦い
秀吉の死後、対立が決定的となった武断派と文治派。
まだ幼い豊臣秀頼(秀吉の子)が、石田三成らに利用されていると考えた加藤清正は、激しい怒りを抱えながら徳川家康に接近します。
三成邸を襲撃して暗殺すべし――そんな風に加熱し、前田利家に諌められたこともありました。

前田利家/wikipediaより引用
もはや避けられない三成との対立。
それはもはや豊臣政権内部での話にとどまらず、徳川家康を含めた空前の戦いへと発展します。
ご存知、天下分け目【関ヶ原の戦い】です。
清正は東軍に協力すると書状を交わし、九州の西軍勢である小西行長や立花宗茂(たちばなむねしげ)を襲撃。
九州にいた大部分の西軍勢を打ち破りました。
なお、関ヶ原の本戦に参加できなかったのは事情があります。
直前に薩摩島津氏の内部で起きた【庄内の乱】で伊集院を支援したことが徳川家康に知られ、上洛を禁止されていたのです。
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その結果、関ヶ原の戦いは、わずか半日で東軍が勝利。
九州で西軍勢と戦った清正は、恩賞として小西行長の旧領・肥後半国を与えられ、ついに肥後一国52万石の大名となるのでした。

熊本城
徳川と豊臣の橋渡し
関ヶ原の戦いに勝利した徳川は、その覇権を不動のものとします。
石高だけでも400万石を保有。
征夷大将軍となり、江戸には幕府も開かれました。
名実ともに天下人となった家康は、諸大名たちに【天下普請】への参加を命じます。
「天下普請」とは、諸大名の労力と費用によって、徳川氏の城と城下町を整備するというもの。
幕府の命を受けた加熱清正も、江戸城や名古屋城などの建築に参加しました。

江戸城/wikipediaより引用
財政負担が大きく、各大名にとってはデメリットばかりのこの政策。
そもそも、それが幕府サイドの狙いでもありましたが、加藤清正は事の成り行きを冷静に受け止めていました。
「強大化した徳川に逆らうのは困難であり、命令には素直に従った方がいい」
豊臣はかつての地位からまたたく間に転落。
大坂周辺に65万石の領地を持つ、一大名として扱われるようになってしまいました。
関ヶ原では徳川方についた清正ですが、もともとは秀吉の子飼いであり、豊臣派を代表する大名です。
徳川政権に納得していても、領地に3万石の蔵入地(豊臣氏直轄地)を残して年貢収入を送り続け、豊臣への忠義も忘れませんでした。
徳川と豊臣の間をどう取り持つか。
いつしか清正は、両者を取り持つことを考えるようになっていきます。
二条城での対面と突然の死
豊臣の当主は秀頼ながら未だ幼く、その母・淀君が同家を取り仕切っていました。
彼女は、豊臣が徳川に臣従することを認めず、秀頼が成人した暁には、徳川が政権を返すべし――そう考えていたとされます。

淀殿(左)と実子の豊臣秀頼/wikipediaより引用
しかし、現実はあまりに厳しい。
両家の実力差は、もはや比較にならないほど歴然としており、豊臣と関係の深い大名たちも家康への臣従を促します。
加藤清正もまた、熱心に淀君を説得した一人。
すると、程なくして機会が訪れました。
慶長16年(1611年)に徳川家康は、後陽成天皇の譲位、後水尾天皇の即位の儀式に参加するため上洛することになり、京都の二条城で秀頼との会見を要請したのです。
「この会見を断れば、豊臣家討伐の口実になりかねない……」
として淀殿を説得。そしてついに両家の対面を実現させたのです。
この時の清正は秀頼に肩入れしていると思われぬよう、家康の十男・徳川頼宣(よりのぶ)の護衛役として会見に参加しました。

徳川頼宣/Wikipediaより引用
懐に短刀を忍ばせ、万が一のときは家康と刺し違える覚悟であった――そんな風に記す逸話もあります。
清正としては、この会談をきっかけとして両家の関係を改善し、豊臣が徳川政権下で存続できる道を作っていくつもりだったのでしょう。
しかし、です。
その直後、事態は思わぬ方へ動いてゆきます。
清正は、大坂からの帰路で突如発病すると、会見から3ヶ月後の慶長16年(1611年)6月24日に熊本で死去してしまったのです。
享年49。
死因は腎虚という病だったと言われていますが、発病したのが歴史的会見の直後だっただけに、毒殺説も囁かれるほど。
いずれにせよ、清正の死後、浅野長政など会見に関わった大名たちも相次いで亡くなってしまい、徳川と豊臣の間を取り持てる人物がいなくなってしまいました。
この不幸により、両家の軋轢が急速に高まり、【大坂の陣】へと突き進んでしまいます。
歴史に「もし」はありませんが、それでも考えたいのは清正の寿命。
あと数年ほど生きるだけで、豊臣の結末も大きく変わっていたのではないでしょうか。
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