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【坂本城】
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坂本の軍事的価値
坂本城の築城は、元亀2年(1571年)に始まりました。
織田信長が比叡山を焼き討ちし、延暦寺を屈服した後、すなわち坂本の支配権を奪った後のことです。
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ここで大活躍した光秀は、近江国「志賀郡」を信長から与えられ、織田家で最初の城持ち大名となりました。
というか光秀が「比叡山攻め」で先陣を務めたのも、坂本から程近い「宇佐山城」の城将だったからです。
宇佐山城といえば【宇佐山城の戦い】で壮絶な死を遂げた「槍の三左」こと森可成(もりよしなり)が城将として有名ですね。
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宇佐山城は、信長が命じて作らせた山城です。
近江から京都へ向かう峠道をわざわざ移動させ、その城下を通るようにしていました。
理由はほかでもありません。
「近江→京都ルート」の1つである「今道越」を宇佐山城で監視することで、軍の侵入だけでなく平時の人と物流も管理できるようにしたのです。
上洛に成功したとはいえ、実は坂本の町も含めた志賀郡は織田家の支配地域ではありませんでした。
宇佐山城を築くことで、生命線でもある【岐阜~京都間】の交通路を確保しようとしたのですね。
ちょっと前までの宇佐山城は、城郭というより陣城――つまり臨時的に築城された前線基地という位置付けでしたが、近年になって複雑な縄張りや石垣造りであったことがわかり、織田政権にとって凄まじく重要な拠点だったと認識されつつあります。
かくも重要な場所ですから、当然ながら敵にも狙われます。
浅井朝倉連合軍です。
志賀の陣から宇佐山城の戦いへ
少し時を戻しまして、元亀元年(1570年)9月。
信長が織田軍の総力を挙げて摂津の大坂へ遠征すると、その最中に朝倉義景と浅井長政が連合軍で宇佐山城へと進軍してきました。
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このとき同城には、わずかな兵で留守を任されていた森可成、そして信長の弟・織田信治、青地茂綱(蒲生賢秀の弟・蒲生氏郷の叔父)らがおりました。
彼らは城を飛び出し、坂本で敵軍を迎え撃ち、少兵で奮戦。
しかし、衆寡敵せず敗死してしまうという事件が起こります。
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この宇佐山城の戦いでは、「槍の三左」という異名と共に小兵力で戦った森可成の勇敢さに注目が集まりがちですが、本稿では
【彼らがなぜ城を出て戦ったのか?】
という理由を掘り下げてみたいと思います。
そのことにより森可成の真価、そして後に築城される坂本城の実力も見えてくるものがあるのです。
宇佐山城の森可成が取るべき対応策は?
先程、宇佐山城は京都と岐阜を繋ぐ重要拠点だと申しました。
なぜならこの時期の信長にとって【政治・外交・軍事】の正当性は、すべて足利将軍家(義昭)を補佐しながら京都を支配することにあったからです。
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もしも京都を失えば?
畿内の支配だけでなく、近隣諸国と戦う正当性や優位性まで崩れてしまうため、絶対に手放すことはできません。
【岐阜~京都間の交通路】はまさしく生命線。
裏を返せば弱点でもあり、敵にしてみれば、そこを突けばいいだけです。
信長が織田軍の主力部隊を引き連れ、大坂に遠征すれば、いうまでもなく絶好のタイミングとなります。越前の朝倉、北近江の浅井は、およそ3万の連合軍で宇佐山城を目指してきました。
織田家にとっては、当然ながら警戒警報MAX!の事態。
そこで宇佐山城を守る森可成はどうすべきか?
「朝倉と浅井が動いた」という情報を受けてまず考えるのが、およそ1,000人といわれる兵力で京都侵入を阻止する方法です。
戦で勝つ、少なくとも戦に負けないために重要なことは、
・自軍に有利な場所を見極め
・敵軍より素早く移動し
・その場所を占拠すること
であり、総大将の能力が最も試される瞬間です。
では、自軍に有利な場所とは?
条件は3つ考えられます。
【自軍に有利な場所】
・敵軍にとって不可避な場所
・敵軍のメリットを活かせない場所
・自軍の優位性を活用できる場所
これを対浅井朝倉軍に当てはめて考えてみると、大軍が絶対に避けて通れない場所で、なおかつ圧倒的な兵力差というメリットを活かせず、逆に森可成の小兵力を最も働かせられる場所が、自軍に有利な場所の条件に当たります。
もちろん理想の場所なんてそうそうありませんので、近い条件を探すのですが、その方法は……。
まず最初に敵軍のターゲットを捉え、進軍ルートを予想(あるいは進軍ルートからターゲットを測定)します。
今回の場合は、既に敵対している朝倉と浅井が相手ですので、ターゲットは明らか。
◆遠征中の信長に最もダメージを与えられる場所
前述の通り、この頃の織田軍の政治外交軍事を支えていたのは
・京都
・岐阜
・京都~岐阜間
といった拠点です。
それが織田軍総出で大坂へ向かっているのですから、重要拠点のほとんどが空っぽ。
浅井朝倉にとっては、絶好のボーナスステージです。
このとき朝倉家は越前から北国街道を南下してきました。
もしもターゲットが岐阜城であれば、琵琶湖を東回りで南下し、東山道に入ります。
一方、ターゲットが京都であれば西回りで南下して、坂本を経由して京都を目指します。
北近江の浅井家も小谷城から軍を動かしました。
浅井長政の居城・小谷城は、織田勢の横山城によって監視(付け城)されていますが、そのエリアは小谷城南面のみで、越前方面に通じる北側と、支城伝いに琵琶湖方面へ出られる西側までは封鎖できていません。
むしろ織田勢に小谷城の裏手に回り込まれないように、浅井勢が、小谷城から琵琶湖にかけて支城網で北国街道を封鎖しています。
その浅井が、わざわざ軍を動かしたとなると、朝倉勢の目的は小谷城の救援でも、岐阜侵攻でもありません。
【京都方面への侵攻】は決定的でした。
戦線をどこに構えるか?
次に森可成は「戦線をどこに構えるか?」を考えます。
戦は主導権の奪い合いと言われます。
基本的により多くの兵力を戦場に投入した方が主導権を握ることができる。
小兵力でその主導権を奪い、握り続けるためには、敵軍にとって不都合な地を素早く占拠することが重要です。
実は、そのような場所にこそ城郭が築かれます。
ゆえに宇佐山城に籠城することも選択肢の一つとして考えられました。
宇佐山城自体が、岐阜~京都間の交通路にありますし、城郭は小兵力でも守れるように工夫がされているので、城に籠るという選択肢も当時十分に検討されたことでしょう。
しかし、同時にリスクが大き過ぎる戦略でもありました。
というのも、仮に宇佐山城を抜かれたら一直線で京都に侵入が可能となってしまうからです。
たしかに京都東山の手前には「中尾城」や「将軍山城」という、かつての足利将軍家が築いた城郭がありましたが、これらの城は近江方面から京都を攻めるためだったり、京都の洛中を襲撃されたときに逃げ込むための城でした。
近江方面から侵入する敵を阻むために築城されてはいません。
要は、森可成にとっては使い勝手が非常に悪い。これらの城に兵を置くと、宇佐山城の兵力がさらに減ってしまうというデメリットもあります。
※この辺は上田城の真田昌幸が、対徳川で戦った上田合戦などを参考にするとわかりやすいかもしれません
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それに浅井朝倉は大軍です。
一定数の兵力で宇佐山城を包囲したまま、別の部隊で白鳥越えの比叡山ルートや逢坂越えの山科ルートから京都へ侵入できてしまいます。そうなっては意味がなくなってしまいます。
もしも敵軍の最終目的地が宇佐山城であれば、籠城するメリットもあったでしょう。
しかし、敵軍の目的はあくまで【京都】そのものや【岐阜~京都間の遮断】であり、宇佐山城攻略はその手段でしかありません。
森可成が必死に守備だけしていても、本来の役割は果たせないのです。
おそらく並の武将だったら「宇佐山城の城将=宇佐山城の死守」で戦略を立案してしまうところ、名将である森可成は「宇佐山城の城将=京都防衛の責任者」を十分に理解した上で戦略を練るのでした。
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