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【坂本城】
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穴太衆
大溝城は、時代を経て光秀存命時とは違った縄張りに改変されている可能性もありますが、湖水を利用した水城というコンセプトは大きく変わらないでしょう。
となると坂本城も大溝城同様、堀に水を引き込み、水によるトラップによって、陸路の北国街道に向けて厳重な防護が施されていたことが想定されます。
また、琵琶湖方面からの敵は必ず舟でやってくるので、上陸地点になる湊を固める必要があります。
同時に、敵船に対して迎撃態勢を取る必要があるため、水軍を組織する必要が生じますが、大溝城には城から直接、出撃できる湊があったことが分かっています。
当時の坂本城の描写を読むと、城から直接琵琶湖に舟が出れたとありますので、対堅田衆、あるいは、琵琶湖の北側で支配権を握る対浅井用の湊が備わっていたことは間違いないでしょう。
そして坂本で忘れてならないのが
【穴太衆(あのうしゅう】
です。
石積みのプロ集団として有名な彼らの本拠地が近所にありました。
高度な石垣技術を誇るような……穴太衆による石垣は、現在でも坂本の町中や寺院で見ることができます。
特に明智家の菩提寺でもあり、光秀の墓がある「西教寺」の石積みは、城郭を思わせるような見事な石積みで、現在でも見ることが可能です。
湖水に残る石垣の存在から、坂本城は穴太衆による見事な石垣を施した城郭だったことでしょう。
坂本城の天守はなぜ作られた?
次に坂本城に天守が設けられた理由を考えてみます。
まず坂本城は、築城時点で「志賀郡支配のための最前線」だったことを見落としてはいけません。
最前線の城で必要な機能の一つは「警戒」です。
最前線の拠点は真っ先に攻められます。
普段から入念に準備をしておき、敵が侵攻してくる前に迎撃態勢を整えていくことが理想です。
そうした場合、できるだけ遠くまで見渡せる機能が必要です。
岐阜城における稲葉山や、安土城における安土山など。
城と山が一体化した城郭には、それ自体が物見の機能を有していますが、残念ながら坂本の地には町や港を同時に掌握できる適当な山はありません。
宇佐山城では坂本から遠く、既に不十分であることが分かりましたし、比叡山でも対湖族用の城郭にはなりません。
しかし坂本城には琵琶湖の物見機能は必須です。
ここからは妄想ですが、そこで考えられたのが高櫓や櫓の望楼機能だったのではないでしょうか。
櫓はできるだけ高い方が理想です。
おそらく坂本城の天守にはこのような機能があったのでしょう。
現代の我々は、城の天守というと姫路城や名古屋城、大阪城のように巨大な天守を思い浮かべますが、安土城の築城前は、3階櫓くらいの規模でも十分に巨大だったでしょう。
今となっては何層か不明ですし、「見るものを圧倒した」と同時代の日記に記されていても、後の時代を知っている者からすると、さほどの規模ではなかった可能性は十分にあります。
また、当時の記録には吉田兼見が坂本城の小天守で茶を飲んだ記録がありますので、小天守を備えた連結式の天守だったと考えられています。
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軍事用と接待用で明確に分けていたのでしょうか。なぜ天守が二つあったのかは分かりません。
ちなみに吉田兼見は吉田神社の神主です。
この吉田神社は下鴨神社と同じく志賀越えで入る京都の東山にありました。
つまり吉田兼見にとって、自身の資産と安全のためには坂本城の明智光秀と昵懇の仲になるメリットが大きかった。
光秀と吉田兼見の関係からも、坂本城が京都(特に東山の住人)にとって非常に重要だったことが分かりますね。
一度、落城して再建されていて……
話を坂本城に戻します。
当時は城の一部が琵琶湖に浸かってるだけでも目を見張るものがあったでそう。
琵琶湖を行き交う舟から、高層の建築物が遠望できるだけでも、相当の驚きだったと思われます。
また織豊系城郭の特徴として、
・天守
・瓦葺き
・石垣
という3点セットがあります。
琵琶湖畔に築城された城郭には、安土城を除いて金箔瓦はありません。
坂本城と同じく琵琶湖畔の「大溝城・長浜城」は、織田信長が命じたためなのか。同じような湖城で城から直接出撃できる湊を有しているという共通の特徴があったと考えられます。
ですので前述の通り「大溝城」や「長浜城」から坂本城の姿を妄想するのがいいかもしれませんね。
いずれにせよ坂本城は、機能美と様式美を兼ね備えた城郭だったことが学者たちによって想定されていますが、肝心の発掘調査が市街地化によりほとんど進んでいません。
今に残るかすかな地形と地名、またこの地域に点在する、坂本城の城門だったという寺の門から予想するしかありません。
現在の地図からは、坂本城らしき痕跡が少し分かります。
本丸と推定される琵琶湖側の一角を囲むように川や水路が巡らされているのが分かります。
しかし、考慮に入れないといけないのは、明智光秀が秀吉に敗れた後、明智家滅亡後に坂本城は一度、落城して再建されていることです。
清洲会議以後、丹羽長秀や豊臣政権下で浅野長政が城主となり、修築して使用していましたので、この時期に改変された可能性もあります。
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よって現在の地図に残る微かな町割りだけを持って明智光秀の坂本城とはっきり言うことはできません。
ちなみに浅野長政の次男で、後年、大坂の陣で活躍し、安芸広島藩主となった浅野長晟は坂本城で生まれています。
まとめ:琵琶湖の水ぜんぶ抜いて欲しい
最後にもう一つ。
坂本城は、明智光秀存命中に、大きな役割変換が起きます。
浅井朝倉を滅亡させ、琵琶湖の水運を完全に支配下に入れた信長は、琵琶湖畔に安土城を築城し、湖の東西南北に城郭を築きました。
・長浜城(北)
・安土城(東)
・大溝城(西)
・坂本城(南)
この時点で、本願寺と和睦し、畿内から敵対勢力は駆逐され、近江の支配権は織田家へ。
最前線の城として築城された坂本城の役割は【兵站】を担う支城の一つとなります。
織田信長は上洛時の移動に安土城から坂本城に船で渡っています。
しかし支城となってもその役割は重要で、今度は安土城防衛の要として、そして古代から変わらない坂本の町の役割、すなわち物流と、ゼニを生み出す拠点として十二分に能力を発揮します。
明智光秀は、志賀郡を平定した後、主戦場を丹波方面に移します。
それゆえ丹波にも複数の城郭を構えますが、一環して坂本城は明智家の本城でした。
その後も坂本の町が生み出す莫大な富は、織田家のみならず、明智光秀の軍事力と政治力を大いに支えたことでしょう。
ということで、様々な視点から坂本城を探ってみましたが、いかがだったでしょうか。
最終的には妄想するしかありませんが、坂本城が単なる水城だけではないことがお分かりいただければ幸い。
同城が幻となってしまったことが本当に残念でなりません。
そしていつの日か【琵琶湖の水を全部抜いて】でも、湖底に眠る坂本城をこの目で見てみたいものです!
筆者:R.Fujise(お城野郎)
◆同著者その他の記事は→【お城野郎!】
日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。
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