明智光秀といえば坂本城!
ということで今回は、城郭どころか城跡すらほとんど残っていない坂本城に注目です。
吉田兼見の『兼見卿記』によれば、元亀3年(1572年)正月頃に築城の始まったこのお城。
大河ドラマ『麒麟がくる』でも光秀が散々頭を悩ませていましたが、一体何がどのように重要だったのか?
周辺の状況(宇佐山城や琵琶湖)なども共に考察を進めていきましょう!
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当時の姿を偲ばせ……てくれない坂本城!
築城当時の坂本城は、大天守と小天守を併せ持つ、石垣造りの最新鋭城郭でした。
この頃はまだ天守を備えた城郭は珍しく、そのうえ琵琶湖の湖面に浮かぶように建つ勇姿はかつてないほど壮観で見る者を圧倒したと伝えられています。
そんな坂本城を期待して現地を訪れると……ない! 面影は何もない!
天守、いや、本丸さえもどこだか分かりません。
この辺り……だという場所では、すき家が牛丼を売っている。
そうだ! 坂本城址公園があるじゃ……って、違うんです。
【城址公園は坂本城内ではない】と当の城址公園自体が認めているほどです。
悲しいかな、明智光秀の坂本城は現代の地図上からすっかり消されてしまい、光秀の前半生と同じぐらいの謎になっていました。
しかし!
そういう場所でこそ真価を発揮してこそ城マニア。
今回はその過程を追いながら、史実の考察や妄想も含めて坂本城を再現してみましょう。
築城当時の証言から妄想してみよう
坂本城は、まったく記録がないワケでもありません。
当時、明智光秀に招かれたり、所用があって城を訪れた人たちの記録が残っています。
しかし……。
京都の吉田兼見
「坂本城の小座敷に招かれました~!(インスタ風に)」
堺の津田宗久
「なんと天守2つに茶室までありましたわ(値踏みするように)」
薩摩の島津家久
「坂本城に招かれたでごわす。城内の備蓄は完璧でごわす。座敷船で琵琶湖に出たでごわす(二日酔い)」
ルイス・フロイス
「坂本城は日本にかつてない規模デスネ。モチロン、安土城の次に、ネ!(信長に忖度しながら)」
という程度で、城自体の詳細な大きさや外観は書き残してくれてません。
よし、こうなったら私自ら行って見てきてやろう!ということで坂本城に行ってきたんですが……。
現地に行って妄想してみよう
……(´・ω・`)
予想以上に市街地です。
しかし、現地の住所名や、やや不自然な道路のカーブ、そして琵琶湖に近い立地や、何となく湖面に接したエリアからは「水城」だった雰囲気が。
実は坂本に点在する寺には【坂本城から移設された】と伝えられる門がいくつか残されてて、以下の「西教寺の総門」や「聖衆来迎寺の表門」が該当します。
フフッ。だんだん、見えてきましたよ。
何もない!と、思われるかもしれませんが、やはり現地に行って、その土地の空気に触れることは重要です。
坂本城の本丸付近と言われている場所ですき家の牛丼を食べ、マクドナルドでコーヒーをすするだけで、もう明智十兵衛の馳走を受け、茶会に招待された気分になってきましたよ!(涙目)
と、強がりはここまでにして。
坂本城の全貌を知るにはあまりに市街地化してしまっていて、どういう構造をしていたのかはさっぱり分かりません。
しかし、城郭には、そこに築城された理由が必ずあります。
ということで、次は、坂本城がなぜこの地に築城されたのか、その謎に迫ってみましょう。
坂本の町は知られざる大商業都市
坂本は、比叡山の門前町として有名です。
同時に、あまり知られていないのが、そこが当時の日本を代表するような【大商業都市】でもあったことです。
有力な寺の門前町が経済的に繁栄するのは想像に難くないでしょう。
坂本の町、特に比叡山の麓「上坂本」と呼ばれるエリアには、隠居した僧侶の住居(里坊)や関連する寺院、日吉大社もあり、数多くの僧侶たちの広大な荘園と住居、そして寺社仏閣がありました。
そうなると臭いますよねw
もうゼニの臭いがプンプン。
坂本の町というのは、越前から京都に至る北国街道(北陸道・西近江路)が通り、宿場や馬借もある、交通の要衝でもあったのです。
とはいえ、ここまでの話なら他の商業都市でもよく見られる条件であります。
実は坂本の町には、さらにもう一つ重要な機能がありました。
それが
湊(みなと・港)
です。
下坂本エリアは琵琶湖に面しており、多くの湊を整備。大量の物資輸送を支える一大拠点となっていました。
特に、一大消費地である京都に向けた北国各地からの物資は、一度、日本海の敦賀に集められると、陸路を通って琵琶湖北端の「塩津」の湊に送られます。
塩津で再び船に載せられた大量物資が琵琶湖を南下し、南部の湊「坂本」へ送られ、そこからまた陸路で峠を越えて京都に運ばれたんですね。
そうです。
坂本の湊は、都の物流も支える経済の大動脈でした。
このような物資の集積地には必ず問屋業が発展します。
「問丸(といまる)」です。
人や物が集まり、商業都市となると金融業も発展します。
「土倉(どそう)」です。
こうして坂本の町は陸運(馬借)、水運、問丸、土倉などを備えた大商業都市として発展していったのです。
では誰がこの土地を支配していたのか?
それが坂本を門前町としていた比叡山でした。
坂本の元締めである比叡山には、関所や湊からの関税や運上税という莫大な利益が納められていました。
「そんな美味しい既得権を、ゼニに敏感な信長様が見過ごすはずがない!」
ということで、坂本の湊の機能をもう少し詳しく解剖していきましょう。
湊町・坂本の実力
坂本には「三津浜」と呼ばれる湊があったと言われています。
・戸津
・今津
・志津
という3つの湊の総称ですね。
ここで陸揚げされた物資は京都へ向かう街道【今道(路)越】につながっていました。
今道越は、山中越え、もしくは志賀越道とも呼ばれ、宇佐山城下から峠を越えて、京都の東山や銀閣寺の北側辺りにつながる陸路の要衝です。
最近では、三津浜と呼ばれる「地域」に6つの町が存在したという説もあります。
そのうち下坂本の南部で「戸津、坂井、今津」が1つのグループを形成し京都方面へ。
そして下坂本の北部に「富ケ崎、比叡辻、三津河」のグループが存在し、こちらが比叡山や日吉大社方面に繋がり、上坂本の門前町をお得意様としていたと目されています。
当時の比叡山は、山頂から麓までに何千人もの僧侶や老若男女が住んでいた巨大な宗教都市です。
もうこれだけで十分商売できる規模。
また比叡辻には馬借があり、物資輸送も整っていました。
このように坂本の町は単なる門前町ではなく、
・比叡山
・京都
という、超巨大な二つのマーケットを支えていたことが分かります。
朝廷に脅しをかけたり、信長相手にメンチ切ったり――比叡山がやたらと強気でアンタッチャブルな存在でいられのも、こうした経済的バックボーンに支えられていたからなんですね。
「もう一度言おう。こんなにオイシイ町を、ゼニに敏感な信長様がますます見過ごすはずがない!」
ということで、坂本の町が単なる琵琶湖のレイクタウンでないことがご理解いただけたと思います。
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次は軍事面から坂本の町を見ていきましょう。
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