坂本城

坂本城から移設されたと伝わる西教寺の総門(左)

明智家

光秀の築いた坂本城は織田家にとっても超重要!軍事経済の要衝だった

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高度な森可成の京都防衛戦略

森可成がとった戦略は、織田家の第一防衛線を宇佐山城から北国街道まで押し上げることでした。

もうお察しでしょうか。

その場所に最適な地が坂本です。

坂本は商業物流の大動脈と申し上げましたが、多くの兵と物資の必要な軍事行動においても超重要。大きな湊は、軍事用の兵站においても一大拠点となりえます。

まず坂本の湊を押さえれば、水際で敵軍の兵站活動を遅らせることができる――。

それだけでなく京都へ向かう峠越えの進軍ルートは、坂本の先で何筋にも分かれますので、扇の要である坂本さえ押さえておけば一ヶ所で複数の要所を握ることもできてしまうのです。

しかも兵は少数。防衛拠点を集約できる地こそが、最も適した場所でありました。

問題は、その坂本の町でした。

町内は依然として比叡山勢力が強く、新参者の織田家には従わない姿勢。

こうなると坂本への進軍途中で、浅井朝倉だけでなく地元勢まで敵に回してしまう恐れがありますが、森可成はここでまたしても名将ぶりを発揮をします。

ためらうことなく坂本の町にいち早く進軍し、布陣してしまったのです。

浅井朝倉にしてみれば

「あー、あいつ坂本まで出てきて、比叡山を完全に敵に回しよったなw これなら側面から挟み撃ちできますわ」

と思ったことでしょう。

敵から見た森可成の布陣は完全に死地です。

しかし、そんなことはハナから承知で「坂本への布陣」をした森可成のチョイスは、

・京都とは反対側の坂本に比叡山勢力を引きつけることにより

・大半の軍勢を大坂に送って京都がガラ空きだった織田軍

にとって、実はグッジョブな選択だったのです。

要は、敵味方の兵を【京都から引き離す】ことで大切な都を守ったわけですね。

『じゃあ信長は、宇佐山城ではなく、最初から坂本に築城すればよかったじゃん!』

そう思うかもしれませんが、坂本の町は比叡山の支配地域です。

志賀郡そのものが信長の支配下には入っておらず、そのような状況で築城などできません。

「じゃあ比叡山攻めちゃいなよ!」とは誰しも一度は考えますが、比叡山の軍事力と仏罰を恐れて躊躇するのが普通。

後に「仏罰なんてあるワケないじゃんw」とばかりに実行を移す信長が破天荒だったのであり、それが後の【比叡山焼き討ち】となるわけです。

少し脱線しました。

森可成の戦闘に話を戻しましょう。

 


衆寡敵せず!森可成、無念の敗死

浅井朝倉の大軍を待ち構えていた森可成以下の将兵たち。

少数ながらも戦線を持ちこたえ、数多くの首級を上げて善戦しましたが、兵力差は如何ともし難いものです。

森可成は、織田信治や青地茂綱らと共に討死してしまいました。

聖衆来迎寺に今も残る森可成の墓。手厚く葬ったため同寺は比叡山攻めの攻撃対象から外された

その後、宇佐山城に殺到した浅井朝倉連合軍。

結局は同城を陥落させることができず、比叡山に後退しました。

「だったら宇佐山城に篭っておけばよかったじゃん! 死なずに済んだのに」

そう思うのは早計で、森可成らの奮戦があったからこそ坂本で大軍を数日間も足止めさせることができ、その間に摂津の織田軍が京都まで帰ってこれたのです。

何度も言いますように戦は主導権の奪い合いです。

少数でもいち早く戦略拠点を奪取することで織田家に有利な戦場を設定するという主導権を森可成が握っていたのです。

「勇敢」だけでは片付けられない、戦巧者の戦いだったことが分かりますね。

もっとも信長の戻りが相変わらず神速だったことや、「戦で消耗したくない」朝倉軍の省エネ志向も影響しております。

かくして浅井朝倉連合軍は比叡山に布陣したまま降りてこなくなりました。

これが【志賀の陣】。

最終的に朝廷が介入して和睦となると、双方で兵を引くことに合意して戦いは終わります。

しかし少し長い目で見た場合、信長には非常に有意義だったことでしょう。

京都防衛には宇佐山城だけでは不十分であること。

岐阜~京都間の交通網強化が急務であること。

こうしたポイントを再確認することができ、今後の三好三人衆や大坂本願寺らとの激戦に備えることができるようになるのです。

そして宇佐山城に代わる新たな城の位置は、すでに森可成が教えてくれています。

そうです。それが坂本城です。

 


信長、坂本に目をつける

坂本を支配下に置くには?

当然ながら比叡山勢力との激突は避けられません。

同時に、琵琶湖の水運を使って動き回る浅井家を封じるため、琵琶湖畔の各みなとも制圧していく必要があります。

舟は、出港できるみなとがあっても、入港できるみなとがなければ機能しません。

そして森可成亡き後、宇佐山城の城将には明智光秀が任命されました。

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宇佐山城の城将になるということは、京都の防衛だけでなく、信長の戦略を実行に移す責任者になることを意味します。

浅井朝倉とは停戦協定が効いておりしばらく手を出せない。

そこで次のターゲットになったのが比叡山勢力の排除でした。

比叡山攻めというと、根本中堂を始め延暦寺全体が戦場になったイメージですが、実際、最も被害甚大だったのは、上坂本の比叡山系列の寺院や里坊だったと言われています。

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もう信長の狙いは明らかですね。

坂本の町を押さえれば山への物資供給は困難となり、信長に屈服せざるを得ません。

同時に、京都へ向かう北国街道と琵琶湖のみなとも押さえることが可能ですので、浅井朝倉に対しても優位になります。

さらに坂本の町自体の商業利権と、京都への物流も押さえることができる――。

非常に理にかなった戦略だったのですね。

明智光秀は、その結果、志賀郡を信長から与えられて坂本に城を築くことになります。

宇佐山城、坂本城、そして志賀郡の支配権を与えられた明智光秀は、織田家初の城持ち大名と言われますが、実はそれほどめでたいことではありません。

前述の通り、この時期の志賀郡は、大半が織田家の支配下にありません。統治するには労力が必要です。

特に坂本の町の北方には琵琶湖水運を牛耳る湖族「堅田衆」がいました。

彼らは本願寺勢力とも繋がっていますので、容易に支配することはできず、真正面から対峙するには新たに強力な水軍が必要となります。

要は、志賀郡の「切り取り次第(自分で取った分は好きにしていいよ)」を約束されただけで、これからが本当の戦いだったのです。

 

光秀、坂本に城を建てる

坂本城は琵琶湖のほとりに築城された水城です。

本丸は琵琶湖寄りにあって、しかも湖側に石垣が突き出ていたことが分かります。

現在も残る石垣は湖中にあって、余程の渇水がない限り見ることはできません。

それだけでなく、この琵琶湖中の石垣を見学するには、坂本城の本丸と推定された私有地に入る許可が必要です。

私が当地を訪れたときは無理でしたが、現在は一般公開されていてチャンスでもありますね(見学は2021年2月7日まで可能)。

◆光秀が見た景色、一望して 琵琶湖畔の坂本城本丸跡地、初の一般公開(→link

また、湖中には、琵琶湖へ直接出撃できる「みなと機能の跡を偲ばせる石垣」も発見されています。

当時の平城で、湖上に突き出た総石垣の城郭は誰も見たことがありません。

これに天守が付属する(しかも大天主と小天守の二つ!)となると、坂本城は全く新しいコンセプトで築かれた城郭であることが分かります。

では、この全く新しいコンセプトはどのようにして考えられたのか?

城にはそこに築城される理由が必ずあります。

城の役割と想定している敵を知れば、自ずと城の正面――すなわち最も注意が払われ、様々な守備の工夫が施される位置が決まり、何となく縄張り図が浮かび上がってきます。

では、坂本城の第一の役割は?

前述の通り、京都防衛です。

ここに城郭を構えることによって京都に向かう北国街道と複数の峠道、また琵琶湖の湊を管理します。

また、織田家がまだ支配をしていない志賀郡であることから、同エリアを制圧するための侵攻拠点が第二の役割となりましょう。

では坂本城が想定している敵は?

坂本城の築城時点で織田家に敵対する勢力は、浅井朝倉のみならず、未だに残る比叡山勢力、そして志賀郡内の湖族・堅田衆や一向一揆がいました。

こうした諸勢力と対しながら、主要な道である北国街道をどう監視するか?というと……。

最も手っ取り早いのが

「街道を城下町に取り組んでしまうこと」

でした。

この時代、街道を取り込んだ城は数多くあります。街道を付け替えて城内を通すことで、監視と封鎖を容易にするのですね。

同時に城郭は、街道に向けて何重にも堀を構え、攻めにくい縄張りを施します。

そこで注目したいのが琵琶湖畔にあった他の城です。

・長浜城(湖東)

・大溝城(湖西)

水城と呼ばれる城郭は、場内に河川や海、湖の水を取り込んで水堀を形成しますが、特に大溝城は、光秀が築城に関わったとされ、後年の大溝城の絵図が残されています。

これを参考に考えてみますと……。

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