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【愛宕百韻】
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『惟任退治記』に「謀反の意思表示がされていた」
連歌が詠まれた直後は、大して問題になっておりません。
この後すぐの【七・七】と【五・七・五】を続けたのが僧侶や歌人であったからか。
何事も無く、穏やかに続けられたのです。
僧侶・歌人といえば当時の知識人の代表格なわけで、上記のような解釈をした上で、あえて続けたかもしれません。
つまり、万が一、光秀の発句が謀反予告だったとしても、華麗にスルーされてしまった可能性が高いという……。
まぁ、光秀にしても、無意識に何の裏もなくこの歌を詠んでいた可能性もありますよね。
だって、謀反の意思表示をしたって何の得もないじゃないですか。参加者の誰かに、信長へ伝えられたら一巻の終わりです。
では、なぜ、謀反の予告とされたのか?
というと軍記物『惟任退治記』に「謀反の意思表示がされていた」と書かれていたことなどが挙げられます。
実は、その説も十分ではありません。
そもそも『惟任退治記』は豊臣秀吉の側近によって編纂されており、光秀をより悪人に描こうとするがため、連歌の原文が改ざんされているのでは?なんて指摘もあるのです。
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一体どっちなんだ???
そう思いますが、現段階でわかっているのは【何ら確定的な証拠はない】ということ。
だからこそ【本能寺の変】も光秀の動機はナゾのままなのでしょう。
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信長が気まぐれで本能寺から移動したらどうする?
ただし、この前後と思われる時期の光秀には不審な行動が多いという指摘もあります。
いわく「戦の際、携帯食として持ってきたちまきを外側の笹の葉ごと食べた」とか、「愛宕神社で何回もくじを引き直した」とか……。
ちまきの話は、本能寺の変の後だとか、愛宕山の連歌会中だったという説もありますね。
もしもこれらの逸話が事実だったとして、実行の何日も前からこんなガチガチに緊張していたのでは、事前に計画が露見してバレてしまう可能性もありましょう。
単独でやろうとしていたからこそ、そして光秀が本来律儀な性格だったからこそ、これほど異常な行動になってしまったのではないでしょうか。
そもそも愛宕百韻が詠まれたのが5月28日で、本能寺の変が6月2日です。
信長が単独で本能寺に滞在していないと、明智光秀の謀反は成功しません。
その間、いつ気が変わるかもしれない。
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というのも、この時期の織田家は、形式上とはいえ息子の織田信忠に家督が譲られており、信長だけを討ったところで光秀のクーデターは成功しません。
同時に信忠も討つ必要がある。
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そんな不安定な状況で、事前に計画的に歌を詠んで実行する――なんてことができるでしょうか?
って、途中からは本能寺の変の話になって申し訳ありません。
同事件の考察記事は、本稿の末尾にリンク先がございますので、よろしければそちらを御覧ください。
愛宕百韻(愛宕連歌会)については、大河ドラマ『麒麟がくる』では取り上げられませんでしたが、フィクションで楽しむには最高の素材だと思います。
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長月 七紀・記
【参考】
呉座勇一『陰謀の日本中世史』(→amazon)
国史大辞典
愛宕百韻/wikipedia