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【山崎吉家】
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信長と敵対
行き場を失い、いったんは信長に助けてもらった義昭。
将軍就任の直後は、信長を「父」とするほど慕っておりましたが、その関係性は次第に綻びを見せ始めます。
そうした最中、信長が朝倉家に向かって
「上洛して我らに協力せよ」
という呼び掛けを行いました。
朝倉方としては「信長のパシリみたいな形で使われるのではないか」ということを危惧し、当然この要請には応えられません。
吉家は、信長との外交にも深く関わっていたとされ、朝倉家の判断にはその意向も十分に反映されていたでしょう。
しかし、この返答は信長との敵対を意味していました。
織田家にしてみれば、尾張と京都の間にいる朝倉氏は「邪魔者」でしかなく、義昭との距離も近い義景を放置しておくのは危険性も考えられます。
そこで「将軍家の依頼を断るんだったら仕方なかろう」と言わんばかりに、突如3万の大軍を率いて朝倉氏を襲撃するのでした。
織田軍の勢いは凄まじいものがありました。
朝倉方の天筒山城を落とし、金ヶ崎城も開城。
一気に、朝倉の本拠地・一乗谷までうかがうような、破竹の勢いで進撃します。
※左下の赤い拠点が天筒山城と金ヶ崎城で、右上の拠点が一乗谷城
なぜ浅井は信長に襲いかかったのか
信長軍の電撃戦によってあっという間に追い込まれた朝倉氏。
そもそもの軍事力が違うのか。
あるいは煮え切らない主君・義景の態度を見て、朝倉軍の戦意は最初から削がれていたのか。
たちまち越前内部へ攻め込まれそうになり、本拠地も危うく……というところで、驚きの一報が届けられます。
浅井長政が突如信長を裏切ったのです。
信長を裏切り滅ぼされた浅井長政 29年の儚き生涯 その血は皇室へと続いた
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信長の妹・お市の方を妻とした長政。
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強固な関係を築いていたと目される二人の間に何があったのか。
なぜ長政は織田家を裏切ったのか。
詳細は以下の記事にお譲りするとして、
信長はなぜ浅井に裏切られたのか?近江の複雑な国衆事情に注目だ
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端的にまとめますと、浅井家は大名としての基盤が強固ではなく、父・久政や周辺国衆の意見が反映されたのでは?という見方です。
長政は、浅井内の朝倉派閥(反信長)を抑えきれなかったんですね。
金ヶ崎で大逆転!のハズだったが……
いずれにせよ朝倉の越前と、浅井の近江は隣接しており、織田軍はその合間で挟撃されそうになりました。
攻勢から一転、信長は絶体絶命の大ピンチ――。
世に名高い【金ヶ崎の退き口】という撤退戦によって、信長は九死に一生を得て京都へ帰還するのですが……。
信長が絶体絶命の窮地に陥った「金ヶ崎の退き口」無事に帰還できたのはなぜ?
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果たして朝倉は、浅井の裏切りを事前に知っていたのかどうか。
残念ながら史料は残されておりませんが、もしも朝倉が長政に対して裏で手を回していたとすれば、外交担当の山崎吉家はおそらく大きく関わっていたことでしょう。
敵の織田軍を自陣である越前まで引き込み、ここぞという瞬間に長政を裏切らせる――。
いささか漫画じみた妄想ではありますが、朝倉と浅井が、信長の首を取り損ねるという詰めの甘さがなければ、後世に語り継がれていた一戦になったかもしれません。
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現実は、怒り心頭になった信長との直接対決が待っているのでした。
義景も援軍として参戦し、信長とその協力者・徳川家康vs浅井・朝倉連合軍の間に【姉川の戦い】が勃発します。
織田徳川vs浅井朝倉「姉川の戦い」で一体何が変わったのか?合戦前後も併せて考察
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この合戦で朝倉氏は徳川の軍勢と対峙し、結果として多くの将兵を失ってしまいます。
戦自体は一般にイメージされるほどの大惨敗ではなさそうですが、朝倉氏単体で見れば大敗といってもいいかもしれません。そして……。
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