山崎吉家

浅井・朝倉家

山崎吉家は信玄との交渉も務めた朝倉家の勇将だった~しかし最期は信長に滅ぼされ

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同盟勢力の崩壊で追い込まれていく

その後、吉家は信長包囲網を引っ張る朝倉氏の家臣として各地に従軍しました。

三好三人衆・本願寺・浅井氏と結託して織田方の宇佐山城・堅田城を攻めた際には、先兵の一員として出陣。

森可成・織田信治らを討ち取る戦果を挙げます。

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浅井・朝倉の連合軍は、信長に危機感を抱かせるほど戦場で大暴れしたのです。

しかし、戦況が膠着した元亀元年(1570年)に両軍は一時講和。

『信長公記』では信長が和睦に応じたような書き方がされておりますが、実際は信長包囲網が機能しており、浅井朝倉の出方次第ではかなり危ない状況へ追い詰めることができていたはず。

金ヶ崎の退き口】に続き、二度までも信長を追い詰めきることができませんでした。

そして逆に追い込まれてしまうのです。

 


信玄を待たずに帰還した義景の大失態

翌元亀2年(1571年)のことでした。

織田信長は、浅井・朝倉連合軍を背後で支えていた比叡山焼き討ちを実行します。

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そして、満を持して浅井氏への攻撃に移りました。

一方、浅井氏は、朝倉氏の加勢を見込んでいましたが、義景がなかなか兵を送らず戦況が悪化。ようやく戦いが幕を開けても、朝倉氏は大した動きを見せることができません。

それどころか配下の兵が次々と信長に寝返る有様で、もはや万事休す――そう思われた矢先、ようやく甲斐の虎が動き始めました。

かねてより信長包囲網陣営を形成していた武田信玄が重い腰を上げ、ついに西上作戦をスタートさせたのです。

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朝倉氏にとっても信長を討つ最大のチャンス。

信玄の強さは誰もが知るところだったので、「信玄と共に信長を挟み撃ちにすれば、勝機はある」と考えても不思議はありません。

ところが、です。

義景は信玄の到着を待たずしてサッサと越前に帰ってしまうという大失態を犯すのでした。

信玄もさすがに呆れ「せっかくのチャンスだったのに、なんという愚かさよ」という手紙を義景に送っているほど。

信玄との交渉役だった吉家が、どんな心境でこの光景を眺めていたのか。

やはり無念さを感じていたでしょう。

まぁ、結局、信玄は病に倒れてしまうので、戦を継続していても運命は変わらなかったかもしれませんが……。

 


最期は刀根坂の地に散る

信玄の死を知った信長は早速上洛し、関係性の悪化していた足利義昭と戦に発展、最終的に京都から追放します。

「このまま反対勢力を一掃しよう!」とばかりに、浅井・朝倉氏へ襲い掛かりました。

吉家は朝倉氏の先兵として出陣しました。

が、その後、朝倉景鏡・溝江長逸といった家臣たちは出陣を拒みます。

結局は義景本人が兵を率いて打って出たものの、家中の統率が乱れていることは誰の目にも明らかでした。

浅井氏の兵たちも多くが信長に寝返るという絶対的不利な状況の中、彼らはほとんど戦うことなく敗れていったのです

義景はひとまず兵を引いて戦場を離脱しようと試みました。

すでに陣中には敗色ムードが色濃く漂っており、その様子を見た吉家は言います。

「近江の地まで出陣したこと自体、朝倉家の命運が尽きて滅亡する証でした。

聞くところによれば信長は知略・武力に優れた人物で、優秀な家臣も多い。

私たちの兵力は心もとなく、そのうえ勇将はすでに命を散らしています。

いま戦うことは死にに行くようなものなので、この際は慣れ親しんだ越前で反撃の時を待とうではありませんか」

義景もこれに同意し、朝倉軍は必死の逃亡劇をスタートさせるのです。しかし……。

雨で足場が悪かったこともあり思ったような進軍ができません。

結果、彼らは刀根坂という地で信長に追いつかれてしまいました。

ハッキリ言って、この時点で朝倉軍に勝ち目は万に一つもありません。そして、そのことは本人たちも十分に承知していたでしょう。

吉家は息子の小次郎とともに敵陣へ特攻し、華々しい戦死を遂げたと伝わります。

彼らの手助けもあってなんとか一乗谷に返り咲いた義景ですが、彼もまた家臣の裏切りによって命運が尽き、自害を余儀なくされています。

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戦国朝倉家の歴史と共に山崎吉家を振り返ってきましたが、彼の実績を評価できるエピソードがあまりに少なく、その点が非常に残念です。

「頼りない義景のもとで孤軍奮闘した重臣」なのか。

それとも「朝倉家を滅亡に追い込んだ重臣」なのか。

その評価は、見る人によって変わってくる武将の一人でしょう。


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文:とーじん

【参考文献】
水藤真『朝倉義景 (人物叢書)』(→amazon
松原信之『朝倉氏と戦国村一乗谷 (読みなおす日本史)』(→amazon

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