学生街の一画で特異な匂いを放つこのエリアは、掘り出し物を求めて今も昔も数多の学者・研究者が足を運んでいる。
昭和の始めには日本文化に熱心な外国人も現れており、その日はドイツ人のルンプ氏がとある絵巻物を購入しようとしていた。
しかし……。
「これを売ってはダメだ! 外へ流出させてはならない! 大変な作品じゃないか……」
狂気――とも言うべきその一枚に心奪われたのは、第一書房の創業者にして自らも雑誌書籍の編集を生業とする長谷川巳之吉(みのきち)。
絵を描いた狂気の主は、戦国~江戸期の岩佐又兵衛勝以(いわさまたべえかつもち)。
慶安3年(1650年)6月22日が命日となる、この岩佐又兵衛の生涯を振り返ってみましょう。
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父の逃亡で母が処刑 2歳で背負った業がスゴい
岩佐又兵衛とは一体何者なのか?
この問いに対し、即座に「荒木村重の子供じゃん!」と答えられる方はそう多くはないでしょう。
※以下は荒木村重の考察記事となります
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しかし絵画史に於いてその名はよく知られ【浮世絵の祖】とも称される人物であります。
父親は、前述の通り、戦国大名の荒木村重。
そして母は、美女として知られた「だし」(正妻か側女かは不明)。
村重の事績については、天正6年(1578年)、織田信長に反旗を翻したことが最も有名ですが、今なおその理由は不明であり、ここでは詳細については省かせていただきます。
※大河ドラマ『麒麟がくる』では信長の仕打ちに耐えかねたという表現でしたね
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いずれにせよ織田を裏切り、そして逃亡したことによって信長の怒りは頂点に達し、有岡城に残されていた女房衆123人は磔、村重の家臣やその家族たち512人も家屋に閉じ込められ、焼き殺されました。
数日後には京都の六条河原で、村重の妻子たち約30人の首も刎ねられております。
その中には、当然、村重の妻だしもいました。
しかし又兵衛だけは運良く乳母によって救い出されます。
数えで2歳のことでした。
京の文化に触れながら絵画の技術を磨いて育つ
乳母が逃げ込んだのは、信長の天敵「本願寺」だとされています。
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ただし、石山本願寺ではなく、京都の本願寺(東西分裂前の教団)であり、その後、又兵衛がどのような生活を送ったかは不明。
以下のように諸説ありますが、
◆信長次男・織田信雄の小姓になった
◆絵師の狩野内膳重郷(父は村重の家臣)に師事した
いずれにせよ都の文化に触れながら、絵画の技術を習得していったのは間違いなさそうです。
一方で、父・村重はといいますと……。
謀反の折、家族や家臣達を見殺しにし、息子の村次(又兵衛の兄弟)を連れて尼崎の花隈城に逃げた挙げ句、信長の死後は堺へ移住。
利休に教えを請いながらのうのうと茶会にも出ていたというのです。
彼に悔恨の気持ちはなかったのでしょうか。
慙愧の念は? 子どもたち、家臣たちに対する詫びの気持ちは?
これは私の勝手な想像ですが、父・村重の噂を耳にするたびに又兵衛は、ドス黒い感情を腹わたに溜め込んでいったのではないでしょうか。
少なくとも快い感情を抱く理由は見当たりません。
文化も電流も変わる
又兵衛は京都で絵師として活躍し、洛中洛外図屏風舟木本(国宝)を製作して一息つくと、越前藩、そして江戸へ活動の拠点を移します。
と、ここで一つお尋ねします。
皆さんは、越前がどこにあるか御存知ですか?
東日本の方には特にわかりづらい、現在の福井県。
若狭とセットで、オタマジャクシのような形の県(国)がそれです。
京都まで続く鯖街道があるのが尾っぽの方の若狭で、丸く大きな頭が東尋坊や永平寺のある越前。
オタマジャクシの首部分に越前若狭の国境があり、今もそこで電車の「直流交流の切り替え」が行われています。
ここで文化も切り替わる――本当にそう感じさせる土地柄なのです。
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