茶の裏歴史

茶屋の原型となる「一服一銭」を描いた『七十一番職人歌合』/wikipediaより引用

文化・芸術

茶葉は銭やでバクチやで!清涼で雅ではない茶の裏歴史を振り返る

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美女と茶――そのあやしい関係

茶は誰が飲むものなのか?

前述の通り、中国では僧侶や道士が修行のお供にしていました。

しかし時代が下り、物流が活発になると、庶民の自宅でも茶店でも、広く愛される飲料となってゆきます。

中国では、現代に至るまで「茶は庶民も気楽に飲めるもの!」という考え方があり、その価格があまりに高騰すると社会問題とみなされるほど。

北宋の開封、南宋の杭州といった都市部には、茶店も並びました。

人々がくつろぎ、語り合いながら茶を飲む……だけでなく、なまめかしい美女が給仕をする店もあったほど。

美女が音楽を演奏して、おいしいお茶を飲める。なんて理想的な店なんだろう!

そうデレデレしていると、とんでもないボッタクリ価格をつきつけられるなど、茶の普及と共に怪しい店も営業していたとか。

美女と茶の関係は、日本でも都市の発展により出現しています。

茶店の前で制服を着て、可愛らしいお姉さんが人を呼び込む♪

こうした「茶汲み女」には別の顔もあり、これみよがしに美女が客引きをして、二階に案内されると“裏オプション”が提示される――そんな業態も生まれたのです。

どこの国も発想は似てくるものですね。

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ギャンブルと茶――闘茶から婆娑羅茶へ

10世紀から13世紀にかけて。中国の宋代では「闘茶」というゲームも行われました。

茶の品質や製造過程はどんなものか?

味を競い合い、互いに語り合う――文人たちの高尚な趣味でしたが、それが日本に来るとどう変化するのか?

再び『鎌倉殿の13人』に注目です。

八嶋智人さんが演じた甲斐源氏の棟梁・武田信義には、一条忠頼という子がいました。彼は鎌倉に呼び出され、宴会に招かれたところで、坂東武者に囲まれ殺害されています。

当時の鎌倉では宴席での流血がしばしばありました。

計画的謀殺のときもあれば、些細なことで喧嘩になって殺し合いに発展してしまう。それが血の気の多い坂東武者でした。

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そんな鎌倉武士が茶を飲む。

そこへ「闘茶」が持ち込まれる。

何やら物騒な雰囲気が漂ってきますが、日本式闘茶には、シンプルなルールがありました。

京都郊外の栂尾(とがのお)で生産された「栂尾茶」を本茶とし、それ以外は非茶とする。

さあどれが本茶か当ててみよ!

というゲームで、当初は宴会のフィナーレを彩るものでした。

それが次第に大掛かりなものになってゆき、二種類を飲み分けていたはずが、いつしか百種類以上に増えるなんてことも。

さらには勝者には景品も出されるようになり、こうなると酒でもないのに飲みすぎてフラフラ。

景品の価値も爆上がりだ!

闘茶で高級商品を得るぞ!

しかも、彼らは武士ですのでトラブルには危険がつきまとい、ついにはこんな風に言われ始めました。

「これはもう闘茶じゃねえ! 婆娑羅茶だな!!」

今日ではゲームのタイトルにもなった「婆娑羅」とは、梵語の「金剛石(ダイヤモンド)」を意味します。

それがどういうわけか、

ダイヤモンドのように硬く、輝き、閉塞した世の中をぶっつぶす!

という、凄まじい意味合いに変化していった。

闘茶が婆娑羅茶になるという時点で、物々しさ満点ですが、景品もどんどん豪華になってゆき、もはや立派なバクチに発展――となると、さすがに幕府も見逃せなくなりました。

その結果、豪華景品を競う闘茶は、公序良俗を乱すものとして禁止。

一体どんだけ派手にやらかしていたのか?という話です。

本来の茶はリラックスするためにあり、中国の闘茶もそこまで派手ではありません。文人趣味であり、あくまで優雅な知的遊戯です。

それを婆娑羅にまでしてしまうところに、日本の武士文化の一端が見えますね。

そもそも彼らはパリピ気質なんですな。

ちなみに現在も闘茶が再現されることがあります。当然ながら、純粋なゲームであり、ギャンブル要素はありません。

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