初期の頃は貴族に都合よく使われたり、地方の親分として粗暴な振る舞いをしたり。
ぶっちゃけ「野蛮」な存在であり、鎌倉時代初期(特に承久の乱)のあたりまでは文字を読めないのもフツーという文化レベルでした。
しかし、彼らだって、いざとなれば「Yes we can!」。
地方統治を担うようになって自然と【法や裁判】に関わるようになり、意識改革も起きます。
たとえば文字が読めるようになったことで、学問に興味を持つ者も現れ始めました。
その最たるものが、金沢文庫を作った北条実時でしょう。
今回は鎌倉武士の衣食住・武芸・刀剣甲冑について見ていきます。
彼らと関わりの深い仏教については、別の機会にして、まずは武芸から!
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武芸は「騎射の三ッ物」
平安後期から、武士の鍛錬として
・流鏑馬
・犬追物
・笠懸
といった様々な鍛錬が行われるようになりました。
いずれも【弓の技術】を高めるための訓練法であり、この三つを合わせて「騎射の三ッ物」と呼ばれています。
現代風にいうなら「三大弓術」みたいな感じでしょうか。
日本人って昔からこういうの好きなんですねぇ。
一つずつ見て参りましょう。
流鏑馬(やぶさめ)
騎馬武者が馬を駆けさせながら、的に向かって矢を射るものです。
現代でも全国で行事やスポーツとして行われていますし、これが一番有名でしょうか。
寛平八年(896年)に宇多天皇が定めた「弓馬礼法」の中に含まれており、永長元年(1096年)に滝口の武士(内裏の警護をする武士)が鳥羽の城南寺離宮で流鏑馬を行った記録があります。
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この頃には武芸の一つとして広く知られていたのでしょう。
鎌倉時代には幕府の行事となり、定期・不定期を問わず盛んに行われました。
奥州藤原氏でも行われていたらしく、現在にまで「秀郷流」という流派が伝えられています。
室町時代に入ると、弓よりも槍での歩戦や鉄砲が重視されるようになるため、流鏑馬は神事としての性格が強くなり、武芸としては断絶同然となってしまいます。
が、江戸時代に八代将軍・徳川吉宗によって再興され、以降は厄払いや祝い事のときに行われるようになりました。
やはり武家の象徴ということで、明治時代には再び衰退しながら、現在にもいくつかの流派が伝わり、全国で行われています。
犬追物
馬に乗って犬を追いかけ、射止めるという武芸です。
最初は牛を的にしていたそうですが、貞応元年(1222年)あたりから犬に変わったようです。
時代が下るにつれて、射手や犬の数が増えていき、大規模なものとなりました。
流鏑馬とは対照的に、室町時代に流行を迎えましたが、戦国時代には下火になっていたようです。
あくまで訓練の一つですし、的となる犬の繁殖に費用や人手をかけるより、戦支度に費やしたいからでしょうか。
その一方で、島津家では元和八年(1622年)に再興して以来、名物となり、江戸でも興行していたとか。
明治十二年(1879年)には宮城(現在の皇居)・吹上御苑を会場として、明治天皇の御前で披露したこともあったそうですから、いわゆる「お家芸」みたいな扱いだったんでしょうね。
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なお、使われる矢は、特殊な鏑矢であって、犬をリアルに弓矢で殺していたワケじゃありません。
※鏑矢……矢の先端に、尖った鏃ではなく、丸みを帯びて音が鳴るように作られた「鏑」がついている・合戦における合図などに使われた
笠懸
射手自身の持ち物である笠(差すほうではなくかぶるほう)を、
【余興で的代わりにした】
のが始まりだと伝わります。
次第に笠懸向けの的や矢が作られたり、的として沓(くつ)や土器・扇なども用いられたり、バリエーションが多彩になっていきました。
笠以外の的の場合は「挾物(はさみもの)」と呼んでいたそうです。
これは個人的な意見ですが、那須与一の故事からすると、扇が一番好まれたのではないでしょうか。
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験担ぎにもなったでしょうしね。
鎌倉時代の武士はこうした鍛錬を日々行い、また土地に関する係争(物理)によって実践技術を磨き続けていました。
だからこそ、承久の乱から数十年もの間にわたって大規模な戦がなかったにもかかわらず、元寇で応戦できたのでのでしょう。
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といっても、これらの武芸は身近すぎて、トラブルに発展することもあったようです。
この頃、由比ヶ浜に近いあたりにはいわゆるオトナのお店が多く、武士がそういったお店で宴会を開くこともありました。
あるとき、そうした宴会の余興として、席を抜けて笠懸をやった武士がいたそうなのです。
そこまではまあいいのですが、その流れ矢が別の店の宴会に飛んでいってしまい、大ゲンカになったことがあるとか……双方、日頃は仲の良い家同士だったので、あらゆる意味で騒動になりました。
それは執権・北条泰時(御成敗式目を作った人)にまで報告され、仲裁の使者が派遣され、やっと収まったのだそうです。
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その後、当事者たちは謹慎、酒宴でのぜいたくは禁じられたそうです。普通に宴を楽しんでいた人たちにとっては、とんだとばっちりですね。
というか、由比ヶ浜の近くでやっていたなら、最初から的を海側にしておけばよかったんじゃないですかね。
この時代、鎌倉の港が整備されて中国との貿易船が入ってきていましたから、そっちのほうがマズイと思われたんでしょうか。
ちなみに、武家の鍛錬としてイメージが強い鷹狩りは、古墳時代あたりからあったようです。
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その頃は当然、武士という階層はいないので、当初は皇族や貴族が行っていました。
仏教により朝廷で殺生が煙たがられた後は一部の皇族・貴族の特権として続けられ、その憧れからか、物語や和歌の題材にもなりました。
鎌倉時代には武士も鷹狩りを行うようになりましたが、これは良い鷹の産地が、蝦夷と呼ばれる人々の居住地域と重なることに関係があるかもしれません。
武士は、朝廷ほど殺生に関するタブー感は強くありませんので、そういった意味でも需要があったでしょうね。
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