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【千利休】
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秀吉の命で待庵を建造
本能寺の変と千利休については、特筆すべきことはないでしょう。
秀吉の陰謀論なども囁かれたりしますし、光秀の動機を探ることは興味を惹かれますが、史実としては信長が死に、そして秀吉が台頭していく――そんな認識でよろしいかと思います。
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利休も秀吉に仕えるようになると、早速、茶室を作るように命じられます。
これが唯一現存している利休作の茶室・待庵(たいあん)で、現代では国宝に指定。
秀吉がかなりゴリ押して進めさせたらしく、利休は他の人に宛てた手紙の中で「迷惑なことを頼まれた」と書いていました。
最初から反りが合わなかったのかもしれませんね。
といっても、仕事はきちんとしています。
天正十一年(1583年)5月、秀吉が近江坂本城で開いた茶会で利休が茶堂を務めました。
津田宗及などの先輩茶人たちからすれば、あまり面白い状況ではなかったかもしれません。
利休は茶人ですので、戦の動向についてはあまり関与していません。
ただ、天正十二年(1584年)の【小牧・長久手の戦い】の間にやりとりしていた手紙が存在しているため、情報だけは得ていたようです。
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また、外部から秀吉への仲介や口添えなどもやるようになっていました。
こういったことは大名と親しい僧侶や文化人などが受け持つことが多いので、利休もその一人になったとみていいでしょう。
といっても、利休は戦の趨勢や大名間の慣例・感情までは飲み込めていませんので、常に的確なアドバイスができたというわけではありません。
このあたりが後々の不和の遠因にもなったのでしょうか……。
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秀吉の信任で徐々に立場が高まってゆく
天正十三年(1585年)は、利休にとって大イベントが続きました。
3月には、秀吉主催の大茶会を主催。
同年6月には本願寺教如が大坂城を訪問し、秀吉の代わりに利休が応対したこともありました。
この頃、秀吉から本願寺に土地を与えることが決まっており、教如はそのお礼を言いに来ていたのですが……ちょっと失礼ですよね。
利休の立場が高まったことを示す話ではあるものの、本願寺側からすれば軽んじられたと思ったかもしれません。
そして同年9月には、同じく秀吉主催での宮中茶会において、利休が責任者を務めています。
「利休」の名は、このとき参内できる身分(居士)として与えられたものでした。
ちょっと不思議な話ですが、それまで身分が低かった人でも、直前にふさわしい身分を与えることで、参内が可能になるというわけです。
居士というのは世俗の家に住みつつ、仏門修行に励む人のことをいいます。
また、秀吉の名とともによく知られている「黄金の茶室」を設計したのもこの年です。
この後も津田宗及・今井宗久とともに北野大茶湯で茶堂を務めたり、九州征伐や小田原征伐に随行して茶会を行ったり、基本的には茶会での活動がほとんどでした。
政治的な動きとしては、島津家や大友家とのやりとりや、小田原では遅参した伊達政宗を取り成したりといったことが挙げられます。
この頃には遠隔地の大名たちにも「利休は秀吉の外交窓口である」という認識がかなり広まっていたとみて良いでしょう。
内々の儀は宗易に
大友宗麟については、もう少し詳しいエピソードが伝わっています。
島津家との関係で窮地に立たされたため、宗麟は自ら大坂城を訪問しました。
このとき秀吉は利休に命じ、宗麟とその家臣たちへ茶を振る舞わせています。
これまた有名な、秀吉の弟・豊臣秀長が
「内々の儀は宗易(利休)に、公のことは私に」
と言った話も、宗麟のこの大坂城訪問のときのことでした。
茶の味とともに、利休の存在も強く印象に残ったでしょう。
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その後も利休はしばらくは茶会で活動していたのですが、天正十九年(1591年)の正月に秀長が亡くなると、徐々に雲行きが怪しくなってきます。
秀長の死から一ヶ月もしないうちに、秀吉から利休へ「堺で謹慎せよ」との命が下ったのです。
利休はすぐに従いました。
しかし……。
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