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木像が磔にされる異常性
豊臣秀吉と千利休の動向に、不穏なものを感じ取ったのでしょう。
利休の弟子として知られる古田織部や細川忠興などが赦免に動きますが、利休本人は既に覚悟を決めていたようです。
身辺整理を進め、辞世の偈まで書きました。
そして、とんぼ返りに近い形で京都に護送され、切腹を命じられて生涯を終えてしまうのです。
享年70。
死後は「一条戻橋」と呼ばれる橋で首をさらされたといいます。
その横には罪状を記した高札も立てられたとか。
・利休は大徳寺の山門に自分の木像を作らせ、秀吉を含めた他の人を侮辱した
・茶器の売買で不当な利益を得ていた
これが事実ならば良からぬことですが、果たして、突然、腹を切らせられるほどなのか……。
利休の木像については、本人よりも先に処刑(磔)にされています。
破棄・処分したのではなく、わざわざ人間と同じような扱いをする異常性。
当時の京都市民も「木像が磔になるなど、聞いたことがない」と困惑していた様子です。
この件は秀長が亡くなってからあまりにも早い展開だったため、当時から様々な説が唱えられてきました。
有力とされるものは二つあります。
自害させられた理由 有力説は2つ
なぜ千利休は自害させられたのか?
有力説の一つがこちらです。
・夫に先立たれて実家に戻っていた利休の娘を秀吉が側室に望んだが、利休が固辞した
極度な女好きとして知られる秀吉ゆえ、さもありなんという説ですね。
利休の言い分としては「娘のおかげで出世していると思われたくない」ということだったようです。
既に当時、妹や妻のおかげで出世し「蛍大名」とあだ名されていた京極高次という例がありましたので、そういった事例を意識したのかもしれません。
近江の戦国武将・京極高次が「蛍大名」と揶揄されてしまった理由とその生涯
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利休としては既に十分な収入や立場を得ていましたので、わざわざ「娘のおかげで」といった世間の嘲笑を浴びる必要もないですし、そもそも娘の行く末を懸念してのこともありましょう。
もう一つの説がこちらです。
・石田三成らが利休の影響力を嫌い、秀吉に讒言して切腹に持ち込んだ
前述の通り、利休は秀吉の”内々のこと”を任されるほど大きな存在になっていました。
すると三成らが「秀長が亡くなったことで、公のことも利休の手に委ねられるようになるのではないか?」という懸念を抱き、排除を急いだ……という話で、これも可能性はありそうですね。
これは私見ですが、もしかすると豊臣秀次事件との関連があったのかもしれません。
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秀次は利休の弟子の一人でした。
もし利休が生きていれば、文禄4年(1595年)に秀次へ謀反の疑いがかかった際、利休が取り成しを務めた可能性もあるでしょう。
その首謀者が三成だったかどうかは不明ながら、豊臣政権あるいは大名の中に秀次を排除したい人がいて、先手を打つために利休を排除した……という展開ですね。
豊臣政権内での政争よりも、豊臣氏そのものの切り崩しという面から見れば、利休の始末や秀次事件はまた別種の意味を持ちます。
後に台頭してくるのは……って、さすがに勘ぐりすぎですかね。
他にも、前述の木像の件や阿漕な商売をしていたからとか、いろいろな罪状が積み重なったため……という説もありますが、2022年現在では断言できません。
まだまだ研究の余地が残されているため、決定打となる史料が見つかれば、大きな話題になることでしょう。
古田織部と細川忠興に残された竹細工
千利休が亡くなった後、茶の湯は彼の名と共に残り続けました。
直接の継承者は、先妻との間に生まれた道安と、後妻の連れ子かつ利休の娘婿となった少庵、そして別の娘婿・万代屋宗安(もずや そうあん)、利休の弟の子・千紹二(じょうじ)などがいます。
また、古田織部や細川忠興などの高弟は「利休七哲」と呼ばれ、茶の湯をそれぞれの形で伝えていきました。
七人の内訳は記録によって異なりますが、織部と忠興はずっと変わっておらず、中心人物だったようです。
利休切腹の直前にも、この二人だけが直接見送りに行ったと言われ、彼らは茶だけでなく利休の哲学や人柄に心服していたものと思われます。
利休としても、織部と忠興には格別なものを感じていたらしく、形見としてそれぞれに茶杓を贈りました。
自ら竹を削って作ったのです。
織部には「泪(なみだ)」、忠興のには「ゆがみ」と名付けられていました。
名前の真意は不明ながら、なんとなく二人に合いそうな気もしますね。
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最後に、秀吉と利休の関係が悪くなかった頃のお話を一つ紹介しましょう。
あるとき、利休が秀吉を茶会に招きました。時期は夏で、朝顔が咲く季節だったそうです。
しかしどうしたことか、茶室の周りの朝顔はすべて切り取られており、花を見ることができません。
不審に思いながらも秀吉が茶室に入ると、床の間には一輪だけ朝顔の花が活けてありました。
茶室の外の朝顔を切り取っていたからこそ、床の間の朝顔がより美しく見えるようになっていた――と、秀吉はこの利休の演出に感動したとか。
江戸時代に成立した利休の逸話集『茶話指月集』に書かれている話ですので、真偽の程は不明です。
しかし、みなまで言わずともわかりあえる感性をお互い持ち続けていれば、突然の切腹という悲劇は起こらなかったのかもしれない。
利休の死は、いつになっても切ないものです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『お茶と権力 信長・利休・秀吉 (文春新書)』(→amazon)
『図説 千利休―その人と芸術 (ふくろうの本)』(→amazon)