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【観阿弥・世阿弥と能の歴史】
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古い演目を当世風にアレンジした世阿弥
また、世阿弥は父の死後、古来からある演目を当世風にアレンジしたり、上流階級の好みに合わせた華麗な芸風に変化させるなどして、さらに能を発展させていきました。
伊勢物語や源氏物語、そして平家物語など、古くから親しまれていた物語を元ネタとした曲を多く作っているのが、世阿弥作品の最大の特徴です。
歴史好きにも馴染みのある人物をテーマにしたものを、いくつか挙げてみましょう。
「蝉丸」
百人一首にも採られている歌人・蝉丸は、実は醍醐天皇の皇子だったが、幼い頃に失明したため捨てられてしまい……。
「葵上(あおいのうえ)」
源氏物語の主人公・光源氏の最初の正室である葵の上が亡くなる「葵」の段そのままの曲。主役(して)は六条の御息所。
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「敦盛」
出家した後の熊谷直実が「わき(シテの話を聞き出す相方役)」となり、平敦盛の菩提を弔うと……。
「景清」(他作者説あり)
平家方の武士で落人伝説もある藤原景清が主役(して)。落ち延びた景清の下を、娘・人丸が訪ねてきたが……。
他にも世阿弥作の曲は非常に多く、現代でも上演頻度がとても高くなっています。
また、彼は脚本だけでなく、「能とはどうあるべきか」といった論述書も多く書いていました。マルチ作家という感じですかね。
しかし、世阿弥本人の後半生は、幸福とはいいがたいものでした。
六代将軍・義教が、世阿弥よりも甥っ子の音阿弥の芸を愛好したため、相対的に世阿弥の評価が下がってしまったのです。
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次第に宮中への出入りなども禁じられ、息子に先立たれ、さらには佐渡に流されるという不幸っぷり。
流罪になった理由は、はっきりわかっていません。
「何らかのきっかけで義教の怒りを買ったから」ともいわれていますが、むしろあの義教を怒らせて流罪で済むわけがないので、違うような気もしますね。功績と差し引いて減刑、とかなさそうですし。
晩年に帰京したという説もあります。
ただ、世阿弥の没年や最期の地はわかっていません。こういうのは文化人にはままある話ですけれども、可哀想すぎやしませんか……。
また、他にも近江猿楽の犬王や、田楽の増阿弥など、優れた芸能人が切磋琢磨していたのもこの時代です。
特に、増阿弥は四代将軍・足利義持に庇護を受けていました。
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能楽座も解体ギリギリに……
六代将軍・足利義教は音阿弥の他に、世阿弥の娘婿である金春禅竹(こんぱる ぜんちく)という能楽師を特にひいきしていたといいます。
音阿弥は、著作を行わず、純粋な役者として好まれました。
禅竹は神道や仏教にも通じ、能と宗教をからめた著作が得意だったそうです。
足利義満・足利義持・足利義教それぞれの好みの差が何となくわかる気がしますね。
親子兄弟でここまで好みが違うというのも面白いものです。
音阿弥は【嘉吉の乱】によって足利義教が討たれると、一時パトロンを失い、苦しい状況に陥りましたが、八代将軍・足利義政が新たな後ろ盾となり返り咲きました。
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しかし、他の能楽師たちはそうはいきません。
各地の有力大名に庇護を受けようと散っていったり、民衆にウケる芸風に変化して生き残ろうとしました。足利将軍家に見切りをつけた人もいたでしょう。
いずれも情勢は厳しく、能楽座も解体ギリギリまで落ちぶれてしまいます。
そんな中で、音阿弥七男・観世小次郎信光の系統が、物語を重視した新しい能を作るようになり、新しい観客を獲得していきました。
この時期の名作としては「安宅」が挙げられます。
歌舞伎で有名な「勧進帳」の元になった演目で、源頼朝の追っ手から逃げる途中の源義経が、安宅の関(現・石川県小松市)を超える際、武蔵坊弁慶が一芝居打ったというあの話です。
武家では「自分で能を演じる」ように
室町時代後期~戦国時代にかけての【能】はさらに進歩します。
まず、裕福な町人のセミプロが演じる能「手猿楽(てさるがく)」や、能の台本である謡曲を一般人が楽しむ「謡(うたい)」などが生まれました。
手猿楽は、宮中や堂上公家(清涼殿に上がれる格を持つ公家の中でもエライ人たち)を含めた京都全体。
謡は、公家・武家・町人と社会全体。
いずれも能に関連して流行した、当時の一大エンターテイメントです。
現代では、手猿楽が話題に上ることはほとんどありませんが、本流の能とは別に、江戸時代まで続いた家もあったとか。
また、大名や武士の教養として「自分で能を演じる」ことが定着したのもこのあたりです。
その理由を断定するのは難しいことですけれども、上記の通り、能には武士の悲哀を描いた物も多いので、共感した者が多かったのかもしれません。
能とはちょっと違いますが、
「織田信長が幸若舞を愛し、特に『敦盛』を好んで舞っていた」
というのはとても有名な話ですよね。
「人間五十年~」というやつです。
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