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【観阿弥・世阿弥と能の歴史】
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秀吉に続いて家康も支持した
また、信長の嫡男・織田信忠や、豊臣秀吉も能を非常に愛好した武士の一人です。
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秀吉などは、自らプロの役者に学んで演じたり、能楽師を金銭的に支援して能楽座を復興させたり、素人上がりの役者を保護して新人育成を奨励したり、実は能の世界にとって大恩人ともいえる立場。
なんか意外ですかね?
しかし派手好みの秀吉に合わせてか。このころから能装束が豪華になっております。
また、現在知られている能面の種類が出揃ったのも同時期のことでした。
養子である豊臣秀次も能を愛し、京都五山の僧侶や山科言経などの公家に命じて「謡抄(うたいしょう)」という謡曲の解説書を作らせていました。
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『新しもの好きの信長や、派手好みの秀吉が好きだったのなら、質実剛健が旨の家康はどうなの?』
そんな疑問を抱いた方もいらっしゃるかもしれません。
と、これがなんと、徳川家康も能のファンでした。
浜松にいた頃から観世大夫元忠・身愛(ただちか)という能楽師親子を庇護しているほどですから、かなり年季が入っています。
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家康は幕府を開いた後、江戸に各家の家元や役者を住ませていました。
徳川秀忠以降の将軍たちも基本的に能を奨励し、これに各大名が続いて、能はすっかりおなじみの芸術になっていきます。
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このため、大名に人気のある曲だけが演じられるようになり、新しい作品は出てこなくなりました。
しかし、そのかわりに演出や内面描写を重視する演技で変化をつけて、複雑さを生んでいく方向に進んでいます。
この流れによって、舞台で演じられる能は基本的に武家のものとなり、庶民は勧進能など、ごく限られた機会でしか触れられなくなりました。
今はジーパン&ジャケットでもOK!
代わりに、庶民は謡や、謡曲の一部だけを抜き出した「小謡(こうたい)」に親しんでいきます。
謡本の刊行も盛んになりました。
江戸時代には歌舞伎や人形浄瑠璃のような他の芸能も盛んでしたし、読本のバリエーションも非常に豊富で、エンタメには困らない状況になっていましたから、庶民はライブで見る能にはこだわらなかったのかもしれませんね。
能の「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」のように、元ネタが同じものも多々あります。
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現代では、何となくしゃちほこばった印象のある能ですが、このように国民の多くが親しむ時代から、格式が高くなっていったという経緯がありました。
とはいえ、この記事を書くにあたって参考にさせていただいた「能楽ハンドブック」の序文によると、1990年代の時点で「ジーパンにジャケット」で能楽堂に行っても差し支えない状況にはなっていたようです。
オフィスカジュアル程度にはきれいめにしておいたほうが無難でしょうけれども。
「服装よりも携帯電話の電源オフや、動作・持ち物によって出る音のほうに気を使うべき」というご意見の方も多々見られました。
最近はネット上に能のあらすじが見られるサイトもありますので、予め話を知っておき、当日は場の空気を楽しむのもアリかもしれません。
文化史は政治史や戦史と違い、実際に見たり聞いたりできます。
たまには生のライブ感覚を味わって、記憶に焼き付けるのもよさそうです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「能楽」「観阿弥」「世阿弥」
戸井田道三/小林保治『能楽ハンドブック』(→amazon)