岩佐又兵衛

絵・小久ヒロ

文化・芸術

信長を裏切った荒木村重 その子・岩佐又兵衛の狂気がヤバい!浮世絵に描かれた母

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38歳で松平忠直のいる越前藩へ 出会ってしまった二人

又兵衛は、大坂夏の陣(1615年)が終わった頃、38歳で越前藩へ移り住みました。

それまでは豊臣家との関わりが深く、徳川の世では京都に居ずらくなったのではないかとの説もあります。

彼を呼び寄せたのは、北之庄にあった本願寺の僧と伝わりながら、その背景には「都の文化を取り入れよう」としていた越前藩主がいました。

そう…それこそが松平忠直

「妊婦の腹をかっさばく」という悪評などが際立ち、後に幕府によって追放される徳川家康の孫です。

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祖父の家康に認めてもらえず、強い不満を抱いている忠直。

悲惨な出自により「絵の中でならいつでも狂える力」を秘めている又兵衛。

出会ってしまった二人……そして生み出される血しぶきブシャー!!なあの絵巻!

作品量からいうと、又兵衛が活躍したのは忠直が追放された後のこと。

忠直の弟・忠昌の時代になりますが、狂気をはらんだ会心の作『山中常磐物語絵巻』は忠直の晩年に描かれたのが有力な見方です。

忠直追放後は、忠直の息子・光吉の転封先である津山藩(岡山県)松平家で保管され、大正時代になってから売りに出されました。

では『山中常磐物語絵巻』には何が描かれているのでしょうか?

 


松平忠直の思いもノセて『山中常磐物語絵巻』

タイトルからお察しの方もおられるでしょうか。

同絵巻は常磐御前、つまり源義経の母にまつわる話です。

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御伽草子にあるもので、又兵衛の生存当時は浄瑠璃でよく演じられていた演目。牛若に会うため奥州へ行こうとする常磐御前が盗賊に殺され、牛若がその仇を討つという復讐劇です。

では、この話を又兵衛に描かせたのは誰なのか。

これに関しては本年6月末、ドンピシャな書籍が出版されました。絵巻研究の世界では知らない方はいない黒田日出男先生の御著書。この絵巻を又兵衛に依頼したのは忠直本人なのか?まさにその点について述べられています。

同書によりますと、忠直の性格・好み、絵巻に使われている素材などから、やはり忠直自身が名指しで又兵衛に依頼したと考えられるとのこと!

しかも又兵衛が越前に来たのは、京都に居づらくなったというより、忠直と密にやり取りをする必要があったからではないかとのご指摘です。

要は、忠直も、それだけ『山中常磐物語絵巻』には思い入れがあったのですね。

忠直は、数ある物語の中から自分でこの話を選び、又兵衛の技術に期待しました。

忠直が所有していたであろう又兵衛風絵巻群は「妻が父に反してでも夫に貞節を尽くす話」が多く、それを理想としていたようなのです。

なにせ、妻・勝子の父は、自分を冷遇する将軍秀忠です。

「妻には父より自分の方にに付いて欲しい」

そんな願いを込めて、この絵巻群を妻の勝子にも見せたというのです……!

嗚呼、絵巻の制作過程がわかっていくというのは、なんて面白いのでしょう!!!

 


鉄の匂いが伝わって来そうな描写の数々

大変恐れ入りますが、以下のYoutube動画やMOA美術館の公式サイト(→link)をご覧頂けますでしょうか。

 

笑いながら常磐に刀を突き刺す男。

鮮やかな血の赤、痛みが伝わってくる傷口。

血の気を失い、青い顔でゆっくりと死んでいく女。

鉄の匂いが伝わって来そうな描写の数々。

「絵巻物がおとなしいもの」だなんて、誰が言ったのでしょう。

私はこの絵を初めて見たとき「あぁ、喜んで描いた絵なんだな……」と直感いたしました。

商業作品は大抵、編集者や読者の意向が反映され、描き手の表現したいことは時に1~2割に抑え込まれます。

「仕事だから、と嫌々描いた作品だな」と匂ってくるものです。

逆に、描き手が描きたいものと編集者・読者が見たい波長がピタリ合う、あるいは近い場合は、それはもう、嬉しくて嬉しくて筆が止まらない!

嬉しい!
楽しい!
もっと描かせろ!
そして見てくれ 私のこの作品を!!!

そう夢中になってしまうのが絵描きの性です。

この『山中常磐物語絵巻』はそういう「描き手が喜んで描いた絵」だと思えるのです。

では又兵衛は、何をそんなに喜んでいたのでしょうか。

私は当初、「溜めに溜めた憎悪の念を吐き出せるのが嬉しかったのか?」と考えました。

人を殺すということはこういう事だ。

俺は知っている。そして死んでいく様はこうだ。

見ろ!俺は全部知っているぞ。

そんな声が聞こえてきそうだと思ったのです。

殺人が身近だった時代だとはいえ 安全な街中でぬくぬく育った絵師ならこうはなりません。

村重謀反の惨劇・トラウマをはっきり覚えていなくとも、血みどろの世界に対して、どこかで「そこが自分の居場所、自分のルーツだ」という愛着のようなものがあったのではと私は勝手に考えていたのです。

しかし違った!

辻惟雄先生によると「又兵衛はこの常磐に母を見ている」、そういう絵だと仰るのです。

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