長宗我部元親

長宗我部元親/wikipediaより引用

長宗我部家

長宗我部元親は戦乱の四国をどう統一した?失意に終わった61年の生涯

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長宗我部元親
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美濃斉藤氏の縁者から正室を迎え入れ

父の遺志を継いだ元親は本山攻めを続け、永禄五年(1562年)9月、茂辰の立て籠もる朝倉城(高知県高知市)へ進軍。

この時は茂辰の子、親茂の奮戦によって長宗我部軍の敗北となるが、本山の勢力圏は減少が止まらず当主・茂辰を見限る家臣が相次ぎ、とうとう支えきれなくなった永禄六年(1563年)1月、朝倉城を捨て本山城(高知県長岡郡本山町)に撤退する。

同年、25歳の元親は、美濃斉藤氏の縁者より正妻を迎えた。

石谷光政の娘である。

石谷家には、明智光秀の重臣・斎藤利三春日局の父)の実兄で、養子となった頼辰(よりとき)がいた。

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つまり、石谷光政の娘は、その義理の妹にあたり、こうした彼らの強い結びつきが後に本能寺の変へ向かわせたとする説がある(織田信長と元親の間に確執が生まれ、明智家・斎藤家が間に立たされたことから・詳細は後述)。

ともかく、この石谷光政は清和源氏・土岐氏の流れを汲み、また13代将軍・足利義輝の奉行衆でもあることから、元親の才が一定の評価を受けていたことがご理解いただけよう。

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元親は、後にこの正室との間に四男四女に恵まれ、更には結婚と同年に、弟親貞に吉良氏を継がせることに成功している。

本山氏の抵抗はその後も続いた。

が、戦いの最中に当主・茂辰が病死、跡を継いだ親茂は永禄十一年(1568年)冬に降伏する(元亀2年の説もあり)。

本山氏は祖父の仇である。同時に親茂は、元親の姉の子でもあり甥にあたる。

元親は彼らを赦し一族を岡豊へと引き取ると、後に嫡男・長宗我部信親の家老として仕えさせている(便宜上、本山親茂と表記したが、元の名は貞茂と言い、元親より一字を与えられ親茂と名乗るようになった)。

朝倉城の戦いで活躍したように親茂は優れた武将であったため、元親も気に入ったようだ。

かくして初陣から8年、元親は祖父の無念を晴らし、土佐の中央部を支配するに至った(続きは次ページへ)。

 

土佐最大の戦い「八流の戦い」

残るは東側の安芸国虎と西側の一条兼定である。

安芸国虎は、元親が本山と戦っている最中に岡豊へ攻め込んできたりしており、一条氏の仲介で一時和睦を結んだとはいえ油断ならぬ相手であった。

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本山との紛争が決着した翌年、元親は安芸国虎の元に書状を出す。

過去のことは水に流して友好を深めようという内容であったが、その中に「岡豊へ来て頂きたい」と策略を仕込んでおいた。

策略とはほかでもない。

和議を結ぶのであれば、お互いの国境に出向くのが常である。

それを本拠に来いというのは「長宗我部に降伏しろ」という意味になる。

案の定、これを見た国虎は激怒。

長宗我部からの使者を即座に送り返してしまう。

国虎は挑発に乗り、重臣が諫めるのも聞かず、元親と一戦を交える覚悟を固めたのである。

一方の元親も、これを口実にして7,000の兵を率いて安芸城(高知県安芸市)に進軍、国虎は5,000の兵で待ち構えた。

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元親は軍を二手に分け、海沿いから5,000、内陸から2,000の兵で攻撃を開始。

対する安芸勢は、黒岩越前率いる2,000の兵が、道幅の狭い八流に留まり、地の利を活かして迎撃しようとした。

しかし、長宗我部軍の勢いに押されて敗北。

残る3,000の本隊も、内陸から攻めた長宗我部軍に背後を突かれて安芸城への撤退を余儀なくされる。

そこで長宗我部軍は二部隊が合流し、安芸城を包囲して籠城戦に持ち込んだ。

国虎の妻は一条氏の出身だったが、同氏からの援軍は来ず、城内の兵糧はつきかけた。

追い打ちをかけるようにして元親は、「井戸に毒を入れた」との噂を流し城内の攪乱に成功させ、万策尽きた国虎は城兵の助命を条件に開城し自害する。

元親はこの安芸城に弟の香宗我部親泰を入れ、城主とした。

 

ついには土佐の名門・一条氏も吸収してしまう

周囲の国人たちを軒並み吸収し、勢いにのる長宗我部。

土佐に残る他勢力は一条氏のみとなった。

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当主は土佐一条5代目にあたる兼定である。

伊予大洲・宇都宮氏の娘を娶っていたが、離縁し継室として大友宗麟の次女を迎えていた。

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『土佐物語』などでは

「軽薄な性格で放蕩、酒宴に興じて色を好む」

と酷評されているが、これは後の時代に書かれたものであり信憑性には疑問が残る。

ただ、特に咎のなかった重臣・土居宗珊を手討ちにしたり、人望に難ありという人物だったことを窺わせる。

実際、天正2年(1574年)2月、一部の老臣が兼定を幽閉し、妻の実家である豊後に追放するというクーデターが勃発するのだった。

代わりに兼定と前妻の子である内政(ただまさ)が擁立され、重臣らは元親に後見を依頼する(最近の研究によると、兼定の隠居には、武家色が強くなりすぎた土佐一条氏に、本来の公家としての本分を全うさせようとする京都一条家の意図があったとも)。

元親は内政を長岡郡の大津城に送り、後に自分の娘と結婚させた。

そして土佐中村の一条御所には実弟の吉良親貞を入れ、その所領を手中に収めたのであった。

一方、土佐を追放された兼定は大友氏の助けを借りて再興を図るべく、天正三年(1575年)、南伊予の豪族である法華津氏からも援助を得て3,500の兵で栗本城(高知県・四万十市)を奪い、中村奪回の機会をうかがった。

これを聞いた元親は、わずか3日後に7,300の兵を率いて進軍、両者は渡川(四万十川)を挟んで対峙する。

いわば土佐の覇権をかけた頂上決戦。

と、なるハズだったが、元親の陽動作戦に兼定の陣形はたやすく崩れ、【渡川の戦い】はわずか数刻で決着してしまった(兼定は瀬戸の小島へ流される)。

家督相続から15年、かくして元親は土佐を統一したのであった。

 

酒を飲んでいると四方の霞が全部私の方にたなびく

天正五年(1577年)2月、連歌会で元親がこんな句を詠んでいる。

四方(よも)はみな 汲手(くみて)になびく 霞哉(かすみかな)

意訳すると――酒を飲んでいると四方の霞が全部私の方にたなびく――すなわち四国の国が全部が自分にたなびいてくるようであるという、四国制覇への野望が見られるものだ。

さほどに鮮やかな土佐統一であり、周囲を見渡せば、まんざら制覇も難しいものではない。

当時は、そう思わせるような周囲の勢力図でもあった。

地図で確認してみよう。

阿波(徳島県)は、元々土佐も支配していた細川氏が没落し、代わりに三好氏が台頭していた。

しかし、当主の三好長治は、国内での評判が芳しくなかった。

讃岐(香川県)も元々は細川氏の領地であったが、こちらも没落し、東部は三好氏一族の十河存保(そごうまさやす)、西部は香川氏の支配下にあった。

中部では羽床氏が勢力を持っており情勢は不安定である。

残る伊予(愛媛県)も元々一国支配をしていた河野氏が力を削がれ、今じゃ支配地域は中央部だけ。

南部は西園寺氏が、東部は金子氏などが支配している状況である。

このように小勢力乱立という状況は、四国制覇を目指す元親にとって都合がよい。

大軍を相手にするよりも各個撃破するのが簡単だからである。あるいはこうした状況が『四国の戦国大名って地味だよね……』と思わせる要因だったのかもしれない。

しかし、元親はやはり別格で、視野の広い彼は四国統一の前に、中央への配慮も忘れてはいなかった。

1570年代後半、全国で最も力を有していた大名は織田信長である。

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このころ信長は、1575年に長篠の戦いで武田軍に勝利し、1576年から安土城の築城にも着手していた頃。

依然として石山本願寺との対決は続いており、毛利との決戦前という状況であるが、もし仮に信長が近畿を押さえると、次に四国へやって来るのは必定。

その段階で織田家に正面衝突しても勝ち目はない。

そこで元親は、姻戚関係にあった明智光秀の重臣・斎藤利三を介して、織田信長に嫡男千雄丸(後の信親)の烏帽子親になることと、併せて「阿波への用兵の了解」を求めている。

使者に立てられたのは中島可之助(なかじまべくのすけ)という風変わりな名前の家臣であった。

中島は信長に謁見し、

「無鳥島の蝙蝠(鳥なき島のコウモリ)」

「蓬莱宮の寛典に候」

という受け答えをしている。

これがどうして、我々常人には理解し難い言葉が交わされているのだが、信長は元親の阿波侵攻を許し、更には嫡男の烏帽子親も引き受けているのである。

長宗我部信親。

信長から「信」の字を拝領した元親の嫡男であり、非常に有能だと期待されていた武将である。

同エピソードの詳細は、以下のマンガに詳しいのでよろしければご参照を。

まんが戦国ブギウギ30話 変人は変人を知る? ベクノスケと信長が出会った~

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国人の人心を掌握する巧みな判断力

天正四年(1576年)、元親は、自ら手勢を率いて岡豊を出立した。

実はこれより5年ほど前、元親の末弟・親房が有馬温泉に湯治に出かける途上で阿波南部の国人・海部宗寿(かいふむねとき)に殺されるという事件があった。

元親は弟の仇討ちを名目に海部城へ攻撃を仕掛けたのだ。すると……。

長宗我部軍は怒濤のごとく阿波に進入し、海部城はあっさりと陥落、城主・宗寿は逃亡する。

元親の勢いを見た周辺の城主たちはこぞって人質を出して降伏し、元親はたちどころに阿波南部の海部、那賀(なか)の二郡を掌握してしまう。

次に目指したのは「白地城(高知県・三好市)」だ。

白地城は阿波の西端部に位置しており、土佐・伊予・讃岐を結ぶ交通の要所となっていた。

四国制覇のためには、是が非でも押さえなければならない城。

守っていたのは十河一存(そごうかずまさ)の妹婿・大西覚養(おおにし かくよう)だった。

このとき覚養は、実弟であり養子にしていた上野介を人質として元親に差し出した。

それから2年後の天正六年、覚養は十河存保(そごうまさやす)に応じて寝返るのだが、『上野介を斬首にすべきだ!』という家臣の意見をおさえて、元親は覚養を国元へ送り返す。

「覚養の裏切りは憎むが、上野介に罪はない」

いかにも芝居っぽいセリフであるが、こうした度量が人の心を打つのもまた事実。

同措置に感激した上野介は、長宗我部の阿波討ち入りの先陣を自ら買って出て、これにより白地城は落ち、上野介はその後も元親に家臣として仕えるのであった。

阿波の南部と北部を支配した長宗我部軍は更に2方向に分かれて進軍、阿波を治めていた三好長治が国内の戦いで敗死したこともあり天正七年には阿波の大半を支配下に置いた。

勢いにのった元親は天正六年から本格的な讃岐(香川県)侵攻を開始する。

手始めに藤目城(香川県・観音寺市)を降伏させ、続いて天霧城主(香川県・善通寺市)の香川氏と和睦、次男の親和(ちかかず)に香川氏を継承させた。

弾みをつけた長宗我部軍は、中讃岐に兵を進め1万2000の大軍で羽床氏を降伏させ、天正八年(1580年)までに阿波・讃岐の両国をほぼ制圧する。

これにて土佐・阿波・讃岐の三国を支配下に。

残りの伊予攻めに関しては、天正五年頃より郡代に命じて南伊予攻略を開始したが、中伊予を支配する河野氏に中国の雄・毛利氏が援軍を出して苦戦し、現場の判断で一時和睦となる。

更には、毛利氏が織田氏との戦いで余裕の無くなった天正七年(1579年)にも伊予侵攻を再開するが、大森城(愛媛県宇和島市)で大敗を喫し、撤退を余儀なくされた。

その一方で東伊予については、順調に国人を味方につけていった。

間もなく四国統一。しかし、この時点で「待った」をかけた、思わぬ大物が現れる。

織田信長である。

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