それは1589年のことだった。
2年前の1587年に完成し、豊臣秀吉のお気に入りだった聚楽第の壁に、何者かが落書きを書いた。
詳細は不明ながら、天下人として権勢を震い、傍若無人化していた秀吉をバカにするような内容と伝わっており、仮に秀吉に、批判をものともしない器量があれば笑って過ごしていたであろう。
しかし、向かうところ敵なしの権力者に、その器は備わっていなかった。
聚楽第落書き事件――。
秀吉の残虐な本性を炙り出すかのようなこの悲劇は、側室の茶々に待望の嫡男・鶴松(棄・捨)が生まれた年のことであった。
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チャチャ ごかいにんってだれのこよ ハ・ハ・ハ!
◆正室・寧々(北政所)に限らず、数多の側室を抱えていた秀吉さんには、一人も子供がおりませんでした。
中には既に子を産んだ女性もおりまして、これ、現代の常識で考えれば秀吉さんが子供を作れない身体――という診断になるところです。
しかし、現実に茶々(お市の方の娘・信長の姪っ子)は身ごもりました。秀吉さんの喜びったら、そりゃ天にも昇る心地だったようですが、それに水を差されたワケで……。
関係者は全員処刑!
◆落書きに激怒した秀吉さんは、聚楽第の警備係のものを始め、犯人、またその関係者を処刑しました。
配下の警備係は耳鼻を削がれて磔にされ、犯人・道休たちは本人はもちろん妻子や関係者は京都市内を引き回されて六条河原で磔に。この一件の被害者は60名ほどだと伝わっております。
しかし、そこまでやれば、落書きを暗に認めちゃってる、ということには気づかなかったんでしょうかねぇ。
蒲生さんはキリシタンなのに禅問答?
◆蒲生さんが鶴松のお祝いにプレゼントしたのは、彼の先祖が大ムカデ退治に使ったと伝えられている「矢の根(鏃・やじり)」だったそうです。
矢の先端にとりつけられている部分ですね。
にしても蒲生さん、さすが信長公お気に入りの武将だけに、頭も良いことで。
ちなみに弟にあたる豊臣秀頼さんの幼名は「拾丸」です。「捨」と「拾」でややこしいですのでご注意を~。
父親疑惑の筆頭武将はこの人!
◆茶々の乳母の子だったことから、秀吉に大名へ取り立てられた大野治長さん。
当時から、彼女の子供(鶴松や秀頼)の父親は治長なんじゃね? と囁かれておりました。
一方で、茶々には別のところで懐妊したという説もございまして。当サイトの以下の記事もご参考にしていただければ幸いです。真実はいったい!?
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(来週へ続く)
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