薩摩、大隅をはじめ、最盛期には日向、肥後、筑後など、九州エリアの大部分を制覇していた島津家。
【耳川の戦い】で大友宗麟に勝利してから、わずか10年足らずで数カ国を一気に制するという快挙だった。
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耳川の戦いで島津軍が九州覇者へ「釣り野伏せ」で大友軍を完膚なきまで叩き潰す
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その島津家を倒すために大軍を派遣したのが、今まさに天下人を目指さんとする豊臣秀吉である。
自らも大軍を引き連れ筑前に上陸すると、茶器の名物【楢柴肩衝】を秋月種実から強奪するなど、まさしく王者の行進を続けていく。
対する島津四兄弟は?
なに? 軍を南へ戻し、決戦で迎え撃とう……という構えか?
しかし、その兵力差はあまりに絶望的であり、鉄の結束で固められていた島津軍の中からも、ついに四兄弟に反対する者も現れるのであった……。
和睦か抗戦か
◆徹底抗戦を貫く島津の四兄弟。鎌倉時代から続くこの名家もすわ滅亡か――。
そんなとき秀吉に率先して降伏したのが同家の有力家臣であった伊集院忠棟さんでした。
彼は豊臣政権に重宝され、厚遇を受けたのを原因として後に殺害されてしまいますが、一方でこのとき伊集院の降伏がなければガチで島津はボロボロに滅ぼされていた可能性があるとも。
カスではなかったのかもしれません。
泰平寺の会談
◆伊集院の強い強い勧めで当主・島津義久も降伏の道筋を辿り、他の3兄弟を説得します。
ところが、です。
開戦前に「秀吉は低い身分からあそこまで出世した、只者ではない」として豊臣との和睦案を主張していた歳久が反発するのです。
島津歳久(島津四兄弟の三男)は矢を放って秀吉に反抗!非業の死を遂げ神となる
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その行為はまさしく暴走と化して……。
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