伊達稙宗と天文の乱

伊達稙宗/wikipediaより引用

伊達家

伊達稙宗の生涯|天文の乱を誘発して東北エリアを戦乱に巻き込んだ政宗の曾祖父

2025/06/18

「手段と目的が入れ替わる」

他者からすればマヌケに見えるこの現象――世間ではままあることですが、戦国時代などにやってしまうとシャレにならない事態に陥ることが多々あります。

その好例が永禄8年(1565年)6月19日に亡くなられた伊達稙宗(たねむね)でしょう。

あの独眼竜の曽祖父にして、戦国大名のシンボルともされる分国法の『塵芥集(じんかいしゅう)』を制定。

なんて聞くと、いかにもインテリジェンスな武将を想像してしまいますが、この稙宗、東北地方に大混乱をもたらした【天文の乱】当事者であり、なかなかのカオスだったりします。

いったい何がどうしてそうなったのか?

伊達稙宗/wikipediaより引用

本稿では伊達稙宗の生涯と天文の乱を見て参りましょう。

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伊達稙宗 26歳で家督を継ぎ最上義定を破る

伊達稙宗は長享二年(1488年)、伊達氏十三代・尚宗(ひさむね)の嫡子として生まれました。

初名は高宗といったのですが、後述の理由で改名しています。

若い頃からやる気満々だったらしく、26歳で家督を継いだその年のうちに羽州探題・最上義定を破り、妹を義定の正室に送り込んで同地域を支配しようとしました。

最上家からすれば、ぶん殴ってきたやつの妹を押し付けられた形になるわけです。

その辺が関係しているのかどうかわかりませんが、義定と稙宗の妹との間には子供ができず、結局、最上家では弟・義建(よしたつ)の孫・最上義守が後々家督を継ぐことになります。

義守は、後の時代に伊達家と強く関わってくる最上義光や義姫の父ですね。

長谷堂合戦で直江兼続を追撃する最上義光『長谷堂合戦図屏風』/wikipediaより引用

何がどうなるかわからない――まさに歴史の醍醐味かもしれません。

稙宗29歳のとき10代将軍・足利義稙に進物を送り、その見返りに「稙」の字をもらいました。

実は、義稙は一度京を追われて将軍に返り咲いた人です。

縁起がいいかどうかでいえば、どちらかというと悪い気がしますが、同時に、稙宗は左京大夫に任官されています。

左京太夫とは左京(京都の東半分・御所から見て左)の司法・行政・警察を司る「京職」のトップです。

東北においては、奥州探題・大崎氏が世襲する官位とされていました。

そのため、この官位を稙宗が得るということは、伊達氏>大崎氏という立ち位置が公的に認められたも同然ということになります。

 


正室1人&側室5人で「14男7女」という大所帯

こうして室町幕府や官位を利用しつつ、伊達稙宗は自分の子供を養子や嫁として他家に送りつけ、勢力を広げていきます。

政略結婚というのはよくある話ですが、稙宗の場合はその規模が違いました。

なんせ稙宗は、14男7女という子沢山だったのです。

正室は当然1人で、側室が5人。

そのうち正室の泰心院と側室1人(名前不明)が6人ずつ、他4人の側室が1~4人ずつ産んでいます。

子供ができやすい人を寵愛したのでしょうか。それにしても命中率高すぎ。

幼名しか伝わっていない人もいるので、夭折したと思われるのですが、それを差し引いても他家に送り込んだ人数はかなりのものです。

しかし、他家からすれば気に入らない手法であることは、なんとなく予想がつきますよね。

縁が繋がったとはいえ、よその家から口と手を出されるキッカケができてしまうのですから。

特に、最上家は上記のような経緯で伊達家から正室を迎えさせられているので、義定が亡くなった永正十七年(1520年)に家臣たちが「もう伊達家なんかに従わねぇ!」(※イメージです)と反旗を翻しています。

稙宗は最上家の支城を次々と落とし、最終的に最上家を支配下に置きました。

これにより、室町幕府初の陸奥守護に任じられます。

やっぱり能力は高かったんでしょうなぁ。

 

171条にも及ぶ「塵芥集」は庶民も読める

天文元年(1532年)、伊達稙宗は居城を梁川城(現・福島県伊達市)から西山城(現・福島県桑折町)に移します。

ここで様々な掟や、税収を記録する台帳などを作って内政に力を入れました。

その中で最も有名なのが戦国時代の分国法としてお馴染みの『塵芥集』というわけです。

中身は、今でいうところの民法と刑法。

171条にも及ぶ詳細な法律で、一般庶民も読めるようにかなも使われているのが特徴でした。

また、塵芥集の制定と同じ年に、大崎氏の内乱鎮圧のため、当主である大崎義直の要請に応じて兵を動かして治めています。

その代わりに次男・伊達義宣を義直の娘婿として跡継ぎにさせました。

狙いがあまりにもスケスケでいっそ清々しいですね。

こうして東北の大部分に影響を与えるようになった稙宗でしたが、その後二つの火種を作ってしまいました。

 

他家を勢力下に置くために自分ちで仲間割れ

一つ目は、三男・伊達実元の養子入りに関わるトラブルです。

稙宗は、越後守護・上杉定実のもとへ息子の実元を送り込み、大崎家と同じように上杉家を実質的な傘下に置こうとしました。

その際「実元に伊達家の武士を100人つけて送り出そう」と言い出したのです。

しかし、伊達家から、デキる配下を大量に引き抜かれていってはたまらないので、息子・伊達晴宗らに大反対されます。

もう一つは、娘婿である相馬顕胤への伊達領割譲でした。

特に理由もないのに「婿殿、気に入ったから領地あげちゃうよ♪」(超訳)などとのたまったので、やっぱり晴宗らが大反対します。当たり前ですね。

伊達晴宗/wikipediaより引用

上がそんなんなので、家臣たちも分裂していきます。

他家を勢力下に置くために自分ちで仲間割れしてどうするよ……とツッコむ人はいなかったんでしょうか。

このころ稙宗は50代になっているため、周りからすれば「耄碌した」としか思えなかったはず。

 


ついに始まる天文の乱

こうして家中に不穏な空気が漂う天文十一年(1542年)、伊達稙宗は鷹狩りの帰路、息子である伊達晴宗にとっ捕まり、幽閉されてしまいます。

おそらく晴宗としては、父を無理やり隠居させて当主になり、「代替わりしたから、親父がやろうとしてたことは全部帳消し!」とするつもりだったのでしょう。

しかし今度は、家臣の小梁川宗朝(こやながわ むねとも)が稙宗を救出したため、話が余計にこじれてしまいます。

宗朝は若い頃から稙宗の世話になっており、後には殉死したほどの人物。

このときも「殿の窮地をお救いしなければ!」と忠義に燃えていたのでしょう。

これを契機に【天文の乱】というカオスな戦が始まってしまのですからやってられません。

そもそも「父 vs 子」という構図です。

その上に、奥州のほとんどが親戚同士になっていたため、どこを切り取っても「親戚 vs 親戚」という骨肉の争いに発展。

もはや何のために養子や嫁をやったのかわからない有様です。

しかもそう仕向けた張本人が火種だというのですからたまったもんじゃありません。

養子や嫁に行った子供たちも「オヤジ何してんだよ!」と言いたかったことでしょう。

 

娘婿の蘆名に裏切られ

当初は伊達稙宗のほうが有利でした。

しかし、稙宗の娘婿(の一人)である蘆名盛氏が、伊達晴宗に寝返ってからにわかに形勢が逆転します。

蘆名盛氏/wikipediaより引用

最終的には天文十七年(1548年)、十三代将軍・足利義輝が仲裁し、稙宗が晴宗に降伏して家督を譲ることで収まることとなりました。

しかし、この戦のせいでこれまで支配下に置いてきた大名が次々に独立してしまい、伊達家の勢力は一気に落ちることになります。

身も蓋もない言い方をすると「せっかく自分で味方につけた家を、ささいなワガママで全部手放してしまった」ということになってしまったのです。

ちなみに、天文の乱・発端の一つだった、実元の上杉家への養子入りはご破算。

跡継ぎ不在のため越後上杉家は断絶してしまい、長尾景虎(上杉謙信・山内上杉家)が越後守護の代行を務めました。

つまり、稙宗の「100人部下つけちゃう♪」発言がなく、実元が無事に養子入りしていれば、謙信はその後、越後を支配するに至らず、実元のもとで伊達家の傘下になっていた可能性もあるんですね。

上杉謙信/wikipediaより引用

まぁ謙信の性格上、家中からの支持があれば、実元に逆らって当主になった可能性もありますが……これ以上の「IF」は止めておきましょう。

 


成実も誕生で伊達家的にはOK?

天文の乱以降、奥州ではグダグダの戦が多発します。

どういうことか?簡単に図式化しますと……。

① A家とB家がトラブる

② 戦が始まる

③「親戚だからこの辺で手打ちにしよう」or「雪の時期だからこの辺で」という話になる

④ 一応戦をやめる

⑤ しばらく経って最初に戻る or 別の家と似たような戦を始める

⑥エンドレス\(^o^)/

こんな感じです。しかもこれが大名同士だけでなく、親子間でも起きます。

関東も有力者が出なかったため豊臣秀吉の統一まで戦乱が長引きましたが、東北の場合は半分以上、稙宗の失策でgdgdになったようなものかもしれません。

後に豊臣政権が奥羽に来たとき、「こいつら親戚同士で戦いまくって何してんの?」と突っ込まれたとか。

一方、稙宗の曾孫である伊達政宗が、小手森城(現・福島県二本松市)で撫で斬りを行ったのは、こうした流れを断ち切るためだったという見方もあります。

伊達政宗/wikipediaより引用

メリットがあったとすれば、実元がその後、異心なく、兄・晴宗に仕えたことでしょうか。

実元は晴宗の娘(実元からみて姪っ子)を正室に迎え(させられ)、息子・成実をもうけています。

政宗の家臣として名高く、現代でも人気の高い伊達成実ですね。

伊達成実/wikipediaより引用

成実は一時期、出奔したことがありますが、政宗をよく支え、『成実記』という政宗の説話集を書いています。

伊達稙宗はその後、永禄8年(1565年)6月19日に亡くなりました。

政宗の生年が永禄10年(1567年)ですので、二人は会ったことがないんですね。

もしも顔を合わせる機会があれば、政宗も「ひいじーちゃん勘弁してよ」くらいは言いたかったでしょう。

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【参考】
国史大辞典
遠藤ゆり子『伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)』(→amazon
伊達稙宗/wikipedia
文化遺産オンライン(→link

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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