伊達稙宗/wikipediaより引用

伊達家

伊達稙宗(政宗の曾祖父)がカオス過ぎ!天文の乱を機に東北も戦国大混乱へ

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171条にも及ぶ「塵芥集」は庶民も読める

天文元年(1532年)。
稙宗は居城を梁川城(現・福島県伊達市)から西山城(現・福島県桑折町)に移し、ここでさまざまな掟や、税収を記録する台帳などを作って内政に力を入れます。

その中でも最も有名なのが「塵芥集」というわけです。

中身は、今でいうところの民法と刑法にあたります。

171条にも及ぶ詳細な法律で、一般庶民も読めるようにかなも使われているのが特徴です。

また、塵芥集の制定と同じ年に、大崎氏の内乱鎮圧のため、当主である大崎義直の要請に応じて兵を動かして収めました。

その代わりに次男・義宣を義直の娘婿として跡継ぎにさせています。

ここまで狙いがスケスケだといっそ清々しいですね。

こうして東北の大部分に影響を与えるようになった稙宗でしたが、その後二つの火種を作ってしまいました。

 

他家を勢力下に置くために自分ちで仲間割れ

一つは、三男・実元の越後守護・上杉定実への養子入りに関するトラブルです。

稙宗はこれによって、大崎家と同じように上杉家を実質的な傘下に置こうとしました。

当時の上杉家は(も)内紛状態だったため、「実元に伊達家の武士を100人つけて送り出そう」と言い出します。

しかし、伊達家から、デキる配下を大量に引き抜かれていってはたまらないので、息子・伊達晴宗らに大反対されます。

もう一つは、娘婿である相馬顕胤への伊達領割譲でした。

特に理由もないのに「婿殿、気に入ったから領地あげちゃうよ♪」(超訳)などとのたまったので、やっぱり晴宗らが大反対します。当たり前ですね。

伊達晴宗/wikipediaより引用

上がそんなんなので、家臣たちも分裂していきます。

他家を勢力下に置くために自分ちで仲間割れしてどうするよ……とツッコむ人はいなかったんでしょうか。

この頃稙宗は50代になっているため、周りからすれば「耄碌した」としか思えなかったでしょうね。

 

ついに始まる天文の乱

こうして家中に不穏な空気が漂う中、天文十一年(1542年)、稙宗は鷹狩りの帰路で息子である晴宗に襲撃され、とっ捕まって幽閉されてしまいます。

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おそらく晴宗としては、トーチャンを無理やり隠居させて当主になり、「代替わりしたから、親父がやろうとしてたことは全部帳消し!」とするつもりだったのでしょう。

が、今度は、家臣の小梁川宗朝(こやながわ むねとも)が稙宗を救出したため、話が余計こじれてしまいます。

宗朝は若い頃から稙宗の世話になっており、後には殉死したほどの人物です。

このときも「殿の窮地をお救いしなければ!」と忠義に燃えていたのでしょうね。

これをきっかけとして【天文の乱】というカオスな戦が始まってしまいます。

そもそも「父 vs 子」という構図です。

その上に、奥州のほとんどが親戚同士になっていたため、どこを切り取っても「親戚 vs 親戚」という骨肉の争いに発展。もはや何のために養子や嫁をやったのかわからない有様です。

しかもそう仕向けた張本人が火種だというのです。養子や嫁に行った子供たちも「オヤジ何してんだよ!」と言いたかったことでしょう。そして……。
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