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景綱「最上の援軍要請なんて断れば二つの国が取れます」
『伊達治家記録』には、政宗と片倉景綱の会話としてこのようなものが記録されています。
景綱「最上の援軍要請なんて断ればいいんです。上杉が最上を滅ぼしてから、我々が上杉を滅ぼせばよいのです。そうすれば一石二鳥、二つの国が取れます」
政宗「最上とは長年仲が悪いからってそんなわけにはいかないよ! ひとつは家康公のため、そしてもうひとつは母上のために、最上を見捨てるわけにはいかないじゃあないか!」
実に綺麗な政宗ですね。
これも『伊達治家記録』ですので、政宗クリーンアップ作戦がなされたやりとりと見てよいかと思います。
片倉景綱は「最上を倒した上杉を伊達が倒せばよい」といとも簡単に言っておりますが、当時120万石を越える石高の上杉、ましてや最上までくだした相手に、伊達がそう簡単に勝てたとは思えません。
むしろ伊達と最上が手を組めば上杉に何とか対抗できるけれども、単独で当たるのは無理というのが現実的な落としどころだったと思います。
気になるところはもうひとつあって、政宗が当時そこまで熱心かつ真面目に家康に味方する気があったか、疑問の残るところです。
そうしたことはさておき、ここでこの部分をもう一度読み返しましょう。
「母上のために、最上を見捨てるわけにはいかないじゃあないか!」
この言葉も、毒殺事件が事実だと信じていれば「あんな酷い目にあった政宗なのにえらい」と感動出来るのですが、今にして思うとそうでもないかもしれません。
さらに政宗に関して厳しいことを言ってしまうと、人質にとられた父を射ち、家の安定のために弟を斬っているとも言われているわけで、そんな彼でも母だけは見捨てられなかったのか、とも言えるかもしれませんね。
しかし、今回の主役は政宗ではなく、あくまで義姫です。
ここでは最上家未曾有のピンチにおいて、伊達の援軍を取り付けた彼女の手腕についてみてみましょう。
留守政景、兄嫁の手紙攻勢にあう
直江兼続率いる上杉勢に攻め入られた最上義光は、嫡男・義康を使者として派遣し、伊達家に援軍を要請します。
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義康は政宗にとってはいとこにあたり、面識もあったでしょう。
当主の嫡男を使者に出すということは、最上側はかなり真剣に援軍を要請しています。
その結果、伊達家から派遣されたのは留守政景でした。政景は輝宗の弟にあたり、政宗にとっては叔父にあたり、義姫にとっては義弟にあたります。
しかしこの伊達からの援軍は、政宗から「あくまで慎重に様子をみて。深入りはしないように」と釘を刺されていたのです。そのため、政景の動きはどうにも鈍く、最上側を苛立たせるのでした。
そんな政景に、義姫から手紙攻勢が続くことになります。
「とにかく早く早く、急いで急いで、本当にすぐに来て欲しいのです」
「急いでください。義光は相手にも都合がある等と口では申しておりますが、本音はともかく一刻も早く来て欲しいと思っています。急いでください。今日の昼までには来て下さい。一刻も早く来てください。遅れるのはあなたのためにもならないと思いますよ」
こんな文面が、真夜中の四時だの、早朝六時だのに書いたと記載の上で届きます。
さらには、
「あなたと私の仲ですから、義光の前だからって遠慮なんかしないでくださいね。義康はまだ若いから失礼があったらごめんなさいね。あなたのご家族はお元気ですか? 多利丸ちゃん(政景の子息か?)もきっと大きくなったでしょうね。様子を聞きたいものです」
と、どんどん距離感を縮めてきます。
子供のことまで持ち出すとは、親戚のおばちゃんそのものになってきました。これは断りづらいです。
政宗や義光の顔を立てながら要求を通す柔軟さ
最上勢絶体絶命の危機は、徳川家康が関ヶ原で勝利したことによって、やっと脱せられます。
このときの直江兼続の撤退戦は有名です。勝敗が結したあとも、最上軍には厳しい戦いが待っていました。
政景は役目を終えて帰ろうとしますが、またも義姫から手紙が届きます。
「帰陣されるって本当ですか? 決着はついたからそれもそうだとは思いますけれども、まだ一戦ありそうなんですよ。ちゃんと見届けてからお帰りになってもよいではありませんか。義光も本音ではそう思っています。私にそう相談してきました。でも、あなたにとどまって欲しいというのはあくまで私に考えです。もう数日留まって、落ち着くまで戦った方が政宗の覚えもよいかと思いますよ」
このような義姫必死の懇願を受けた政景は、直江兼続撤退後も山形に留まりました。
かくして義姫の実家は最大の危機を逃れたのです。
この戦いで最上家が踏みとどまれたのは長谷堂を守り抜いた志村光安らの活躍もあります。しかし、伊達からの援軍を急かし、とどめた義姫の功績もあると言えるのではないでしょうか。
そしてここで注目したいのが、義姫が義光、政景の顔を立てることに気を配っている様子です。
早く援軍として来て欲しい、滞在して欲しいという願いを、あくまで「義光は本音ではそう思っているけれども、それを頼むのはあくまで私の意見」としています。義光の言いにくい本音を、「義姫の意向」という体裁で伝えているわけです。
また政景にも「最上父子との間は私が取り持つ」と伝えています。「私の意見を聞いたら政宗や義光からの受けもよくなるなず」とメリットも示しています。
大崎合戦の時も今回もそうですが、義姫は相手の顔を立ててうまく立ち回ります。
男同士ならプライドが邪魔をして角が立ちそうなところにさっと入り込み「まあまあ、ここは私の言うことも聞いて!」と、場をおさめているのです。
こんなことができるのも、彼女が柔軟でかつ信頼を寄せられる人物であったからでしょう。
政宗はやはり母が大好きだった
義光の死後、最上家は幼主のもとで混乱に陥り、改易となります。
政宗は年老いた母を引き取り、暖かい場所に屋敷をつくるとそこに住まわせたと言います。
現在でも仙台に残る保春院は、義姫の位牌を安置するための寺です。
亡き母を供養する政宗の姿は実に愛情深く、印象的です。だからこそ『独眼竜政宗』のサブタイトルに「母恋い」と使用されたり、義姫出てきたりするのでしょうね。
が、しかし!
この「母への愛」は前述の通り「毒殺未遂があっても子は母を慕うもの」という屈折したものとしてフィクションでは解釈されます。
ここを改めましょう。
政宗にせよ、夫の輝宗にせよ、兄の義光にせよ。彼女を敬愛していたのは、彼女が魅力的だとか家族だからとか、そういう理由もあったにせよ、何よりデキる女で、かつ献身的にテキパキとやるべきことをしっかりこなす人物であったからだ、と。
今こそ『伊達治家記録』以来の鬼母像は捨て、素顔の彼女を見て、そして評価したいところです。
彼女の名誉回復につながるだけではなく、その活躍ぶりは戦国時代の女性のあり方、活躍ぶり、家同士をつなぐ役割を示す好例となります。
男たちが血を流す一方で、女たちも汗を流し、様々な交渉に挑んでいたのです。
有能な戦国の女性像としての義姫を、是非世間にも広く知っていただければと思います。
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記:最上義光プロジェクト
(@mogapro http://samidare.jp/mogapro/ )
【参考】
遠藤ゆり子『戦国時代の南奥羽社会: 大崎・伊達・最上氏』(→amazon)