北条氏綱/wikipediaより引用

北条家

北条氏綱55年の生涯をスッキリ解説!関東へ躍進だ【戦国北条五代記】

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関東の北条氏――戦国期の後北条氏と言えば「北条氏康」が代表的人物として名前が挙がりやすい。

武田信玄
上杉謙信
今川義元

といった華やかな戦国武将と幾度も名勝負を繰り広げ、ついに小田原を守りきり、関東を制覇したとして知られるからです。

しかし……。
その栄誉はむしろ父の北条氏綱に与えられるべきではないでしょうか。

父・早雲と、息子・氏康に挟まれ、地味で目立たぬ存在なれど、実は小田原へ拠点を移し、そして「北条氏」の名を関東に轟かせたのも氏綱の手腕あってこそ。

本稿では、あまり語られることのない北条氏綱の関東覇権を振り返ってみたいと思います。

 

北条氏綱……偉大なる宗瑞の子として生まれる

北条氏綱は、長享元年(1487年)に誕生。
父は、「北条五代」の始祖であり、一世一代の下剋上を成し遂げたとして知られる北条早雲(伊勢宗瑞)です。

母は宗瑞の正室である小笠原政清の娘で、嫡男だった氏綱は、おおよそ文亀年間(1501~1504年)に元服を済ませていたと目されます。

彼の名乗った仮名は、父と同様に「新九郎」でした。
この名は、以後、北条家を継ぐ歴代当主たちに受け継がれていく伝統的なものになっています。

北条氏綱が史料に登場するのは意外と遅く、永正9年(1512年)に家臣の伊東氏に対し
「此度の戦は見事だった」
と戦功を褒めた感状に名前が登場しました。

この時点では父と連署しているため、まだ家督の継承は行われていませんが、すでに後継者として家中で重要な役割を担っていたことが理解できます。

もっとも、この年すでに57歳に差し掛かっていた父の早雲はまだまだ現役であり、彼が相模国の侵攻を本格化させたことで、ようやく氏綱の名前が登場してきたという流れです。

北条氏綱の名がなかなか史料に見えないのも、おそらくこのタフネス親父がいつまでも第一線で働いていたためでしょう。
さすが室町幕府の幕臣から大名への道筋を作った御方であります。

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政治的判断で早雲は隠居へ

60歳を超えても現役バリバリで活動していた宗瑞。
やがて政情の変化により一線を退く時期がやってきました。

この引退は、扇谷上杉と小弓公方足利氏の微妙な関係が影響していると思われます。

早雲は、長年にわたって扇谷上杉氏と抗争しており、一方の小弓公方足利氏とは、協力関係にあると見なされておりました。
しかし、この扇谷上杉と小弓公方が協力関係になってしまい、その狭間に置かれた早雲が居心地の悪い存在となってしまったのです。

あるいは空気を読んで配慮したとも言えるでしょう。早雲はやむなく「隠居」を決断し、相模方面の攻略で成果を上げていた北条氏綱が二代当主の座についたのです。

関東の政治事情によってようやく家督を継承した氏綱。
上記の指摘が事実であれば宗瑞はまだまだ活躍する心づもりであったのかもしれません…。

いずれにせよ家督を継承した北条氏綱は、精力的に動いていきます。

まず「代替わりの改革」として、印判(はんこ)や本拠地の移動などを実施。

北条氏を象徴する
【虎の印判】
が出現しました。

四角形の中に「禄寿応穏(財産と命がまさに穏やかでありますように)」という文を刻んだもので、その上部に虎が描かれたデザインです。

 

小田原移転で関東進出の基盤を固める

「虎の印判」は、北条氏が勢力を拡大していくにつれて「北条権力の象徴」と考えられるようになっていきました。

実に彼らが滅亡するまで使い続けられることになるのですが、単に精神的シンボルという存在だけでなく、政治的実行力も伴っていたのです……とは、どういうことか?

当時、関東では、終わりなき戦乱に伴って人心は荒れ、【郡代・代官】らが勝手に多くの税を徴収するということも頻発しておりました。

そこで、これを取り締まるため、
「虎印のない文書には一切応じる必要がない!」
と明言する役割を担ったのです。

結果的に、この虎印は、家臣らの権利を制限することにもつながり、北条氏の統治機構強化へ繋がっていきます。

例えば代替わり後の北条氏綱は、宗瑞の意思を継いだ積極的軍事行動に出ており、前述の小弓公方足利氏を支援するため上総(千葉県)に渡海。

神奈川県から千葉県というと、陸路で結構な距離がある印象ですが、船であればかなり近いものです。
氏綱のこの行軍は、今後も「宗瑞と変わらないスタンスで活動していくぞ!」ということを対外的に示したと考えられます。

ただし彼は、対外進出で戦争を重ねるよりも、領国支配体制の強化を目指し、国力増強に努めていたフシが垣間見えます。

その最たる例が本拠地の小田原移転でしょう。

早雲の代では伊豆の韮山城を本拠としておりましたが、北条氏綱は小田原城に定め、関東制圧の拠点にしたのです。
これに伴い代替わり検地を行い、小田原周辺や鎌倉寺社領の税負担を明確に定め、支配者としての地位を確立していくのでした。

 

桓武平氏の流れを汲む伊勢氏

代替わりの政策がひと段落した大永3年(1523年)。
氏綱は自分の名字を「伊勢」から「北条」へと改めました。

「えっ、そもそも氏綱は北条氏じゃないの?」
と思われるかもしれませんが、これまで父の宗瑞がそうであったように「伊勢」という旧来の名字を名乗り続けていたのです。

原稿上でも、便宜的に「北条氏」の名前を使っておりましたが、正確にはこの大永3年以降をもって「北条氏」の歴史がスタートします。

では、なぜ先祖代々の名を捨て「北条」を名乗ったのか?

誤解のないように言っておくと、「伊勢」という名字も桓武平氏の流れをくむ由緒正しいものであり、決して格は低くありません。

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それでも改称を決断した理由には、対抗勢力である扇谷上杉氏との立場的な違いによる「強烈なコンプレックス」が隠されていました。

まず、当時の扇谷上杉氏は、正式に相模国の守護であることを認められた家柄であり、対外的にも「相模国主」としての格式を有していました。

その一方、小田原に移転してきた伊勢氏は、勢力こそ秀でていたものの、土着の勢力からしてみればあくまで「他国の逆徒」、つまり「いけ好かないよそ者」に過ぎなかったのです。

北条氏綱はこの現状を変えるべく、【実質的な面】と【名目的な面】からアプローチをかけます。

 

「よそ者・伊勢氏」から「相模の支配者・北条氏」へ

実質的とは、相模を中心とした領国支配の確立です。
前述の虎印を用いた政治力・軍事力を背景に支配者としての存在感を見せつけ、「もはや彼らが相模の支配者でいいのかも…」と思わせることを狙いました。

もうひとつの名目的なアプローチが
「伊勢から北条への改姓」
です。

ここでいう「北条」とは、言うまでもなく鎌倉時代に執権として将軍を補佐した北条氏を指します。

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その父・北条時政から世に出て、ついには鎌倉幕府を実質取り仕切っていた一族のことで、関東では絶大な名前の効力を有していました。

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既に滅亡はしているものの、名前のイメージとは決して捨て置けるものではありません。
北条氏綱は、前時代の正当支配者を名乗ることで「我々はよそ者ではなくあの北条氏の後継者である!」という名目に変え、自分たちの正当性を証明しようとしたのです。

言い換えれば、正当な後継者ではないから、名前だけでも強引に変えた!ということなんですけどね。
名乗ったもん勝ちということでえしょう。

一応、宗瑞の母方に「遠縁がある」とする史料も残されていますが、これは後世の創作である可能性が高い。

歴史を語る上で「北条氏」と「後北条氏(早雲や氏綱たち)」という区別がなされるのはこのあたりに理由があります。

「なんと紛らわしいことを…!」と眉をひそめる方もおられるかもしれません。
それでもここで北条姓を名乗り、関東の勢力として地盤を築いたことにより、
戦国大名・北条氏が誕生した】
という見方もあるほどです。

 

山内&扇谷上杉氏との抗争 江戸城を獲る!

領国支配の体制を盤石なものとした北条氏綱は、大永4年(1524年)ごろから扇谷上杉氏・山内上杉氏の攻略に着手します。

もともと北条氏と扇谷上杉氏とは暫定的な同盟関係にありましたが、おそらく「相模の支配者」を大々的に名乗ったことで敵対関係となったのでしょう。
氏綱は、武蔵国・相模国の国衆を服従させながら攻略を進めていきました。

一方、これに危機感を覚えたのが扇谷上杉の当主・上杉朝興(ともおき)です。

北条氏綱と関東の各勢力/photo by 野島崎沖 wikipediaより引用

朝興は、長年敵対していた山内上杉の当主・上杉憲房に和解を申し入れ、扇谷上杉氏と山内上杉氏は協力関係を構築。
さらに彼らは、北条と敵対関係にあった甲斐の武田信虎との結びつきも図り「北条包囲網」を結成しようとしました。

武田信玄の最初の妻が、上杉朝興の娘であるのもこうした背景があったんですね。

しかし、これを黙って見ている氏綱ではありません。
山内上杉氏との講和に向け、江戸城から河越城へと移動していた上杉朝興の隙を突く形で江戸城へ攻め込み、留守役を任されていた太田資高を内応させて同城を攻略するのです。

江戸城は、もちろん徳川家康の建てた江戸城とは違います。

それでも当時は関東の流通を担う重要な拠点であり、北条氏綱がここを所有したことは非常にショッキングな出来事でした。
彼はここを拠点として武蔵国北部や下総への進出もできるようになり、以後、この地に「江戸衆」を配置して管理にあたらせたのです。

氏綱の快進撃は止まりません。

江戸を拠点に入間川(現在の荒川)を越え、山内上杉氏だけでなく古河公方の城も次々と落としていきました。
朝興も河越城から戦線を後退せざるを得なくなり、北条の関東制覇はもはや目前……。

という段階になって上杉朝興の外交努力が実を結びます。

上杉憲房や武田信虎の協力を得て反攻に転じ、河越城を取り戻すと、次々に勢力圏を回復していくのです。

氏綱も、上杉氏の本国である越後の協力を得て、関東上杉氏と対立させるなど、背後を脅かす外交努力もするのですが、それを上回る朝興の外交手腕によって北条氏は完全に孤立。
関東で「北条包囲網」が形成されてしまいます。

以後、朝興方との戦では常に劣勢を強いられるようになり、里見氏らの参戦もあって敵地攻略どころか鎌倉や玉縄城を攻められるという始末でした。

防戦一方の北条勢。
早雲以来続いた躍進も「ついにここまでか」と思われました。しかし……。
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