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【北条氏綱】
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「よそ者・伊勢氏」から「相模の支配者・北条氏」へ
実質的とは、相模を中心とした領国支配の確立です。
前述の虎印を用いた政治力・軍事力を背景に支配者としての存在感を見せつけ、「もはや彼らが相模の支配者でいいのかも…」と思わせることを狙いました。
もうひとつの名目的なアプローチが「伊勢から北条への改姓」です。
ここでいう「北条」とは、言うまでもなく鎌倉時代に執権として将軍を補佐した北条氏を指します。
その父・北条時政から世に出て、ついには鎌倉幕府を実質取り仕切っていた一族のことで、関東では絶大な名前の効力を有していました。
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時政の息子・北条義時は2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも主役に抜擢されるほど。
既に滅亡はしているものの、名前のイメージとは決して捨て置けるものではありません。
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北条氏綱は、前時代の正当支配者を名乗ることで「我々はよそ者ではなくあの北条氏の後継者である!」という名目に変え、自分たちの正当性を証明しようとしたのです。
言い換えれば、正当な後継者ではないから、名前だけでも強引に変えた!ということなんですけどね。
名乗ったもん勝ちということでえしょう。
一応、宗瑞の母方に「遠縁がある」とする史料も残されていますが、これは後世の創作である可能性が高い。
歴史を語る上で「北条氏」と「後北条氏(早雲や氏綱たち)」という区別がなされるのはこのあたりに理由があります。
「なんと紛らわしいことを…!」と眉をひそめる方もおられるかもしれません。
それでもここで北条姓を名乗り、関東の勢力として地盤を築いたことにより、
【戦国大名・北条氏が誕生した】
という見方もあるほどです。
山内&扇谷上杉氏との抗争 江戸城を獲る!
領国支配の体制を盤石なものとした北条氏綱は、大永4年(1524年)ごろから扇谷上杉氏・山内上杉氏の攻略に着手します。
もともと北条氏と扇谷上杉氏とは暫定的な同盟関係にありましたが、おそらく「相模の支配者」を大々的に名乗ったことで敵対関係となったのでしょう。
氏綱は、武蔵国・相模国の国衆を服従させながら攻略を進めていきました。
一方、これに危機感を覚えたのが扇谷上杉の当主・上杉朝興(ともおき)です。
朝興は、長年敵対していた山内上杉の当主・上杉憲房に和解を申し入れ、扇谷上杉氏と山内上杉氏は協力関係を構築。
さらに彼らは、北条と敵対関係にあった甲斐の武田信虎との結びつきも図り「北条包囲網」を結成しようとしました。
武田信玄の最初の妻が、上杉朝興の娘であるのもこうした背景があったんですね。
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しかし、これを黙って見ている氏綱ではありません。
山内上杉氏との講和に向け、江戸城から河越城へと移動していた上杉朝興の隙を突く形で江戸城へ攻め込み、留守役を任されていた太田資高を内応させて同城を攻略するのです。
江戸城は、もちろん徳川家康の建てた江戸城とは違います。
それでも当時は関東の流通を担う重要な拠点であり、北条氏綱がここを所有したことは非常にショッキングな出来事でした。
彼はここを拠点として武蔵国北部や下総への進出もできるようになり、以後、この地に「江戸衆」を配置して管理にあたらせたのです。
氏綱の快進撃は止まりません。
江戸を拠点に入間川(現在の荒川)を越え、山内上杉氏だけでなく古河公方の城も次々と落としていきました。
朝興も河越城から戦線を後退せざるを得なくなり、北条の関東制覇はもはや目前……。
という段階になって上杉朝興の外交努力が実を結びます。
上杉憲房や武田信虎の協力を得て反攻に転じ、河越城を取り戻すと、次々に勢力圏を回復していくのです。
氏綱も、上杉氏の本国である越後の協力を得て、関東上杉氏と対立させるなど、背後を脅かす外交努力もするのですが、それを上回る朝興の外交手腕によって北条氏は完全に孤立。
関東で「北条包囲網」が形成されてしまいます。
以後、朝興方との戦では常に劣勢を強いられるようになり、里見氏らの参戦もあって敵地攻略どころか鎌倉や玉縄城を攻められるという始末でした。
防戦一方の北条勢。
早雲以来続いた躍進も「ついにここまでか」と思われました。
小弓公方家が内部分裂! 形勢逆転へ
窮地に追い込まれた北条氏綱に対し、武家恒例のトラブルが救いの手となります。
「お家騒動」です。
これまで関東諸勢力の連帯によって形成されていた北条包囲網。
その一角であった小弓公方家が内乱を始め、さらには千葉の里見氏も分裂して当主の里見義豊と庶家出身の里見義堯が抗争を引き起こしました。
チャンス!とばかりに氏綱は義堯を支援します。
一方、上杉朝興が義豊サイドにつき、北条vs上杉の代理戦争という様相も帯びてきて、結果は北条サイド・里見義堯の勝利に終わります。
義堯が当主となった里見家は、当然ながら北条包囲網を離脱します。
朝興方にとっては大幅な戦力ダウン。
それだけでなく里見氏同様、氏綱に敵対していた真里谷武田氏でも内乱が発生し、当主の真里谷信隆とその叔父・真里谷信秋が対立しました。
北条氏綱はここにも介入し、信隆を支援することで、今度は小弓公方・足利義明が支援した信秋と、再び代理戦争を引き起こします。
頻発するお家騒動を見ていると、関東の戦乱に終わりがないのもご納得でしょう。
氏綱にとっては残念ながら、真里谷武田氏の内乱は、敵方の信秋が勝利してしまうのですが、いずれにせよ北条包囲網を形成していた戦力の大幅ダウンは、上杉朝興・足利義明にとって大ダメージです。
何度も緒戦に介入した北条氏綱としては『してやったり……』といった心境だったはず。
このころから北条氏は再び敵地奥深くまで進撃できるようになり、一気に勢力を盛り返していくのです。
花倉の乱では栴岳承芳の味方になるも……
もともと周辺に敵を多く抱えていた北条氏。
その中でも西方の今川氏とだけは協力関係を構築できておりました。
しかし、天文5年(1536年)、今川家の当主・今川氏輝とその弟が同時に亡くなってしまい、後継者をめぐって【花蔵の乱(花倉の乱)】が勃発してしまいます。
対立したのは以下の二人。
栴岳承芳
vs
玄広恵探
両者共に今川氏親の息子でありながら僧名だったのは、当初は「後継者になる見込みがない」と思われていたためです。
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勝ったのは、栴岳承芳こと今川義元。
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義元が花倉の乱に勝てたのは、側近であった太原雪斎の働きが大きいとされますが、実は北条氏綱も全面的に支援しており、北条という強力な後ろ盾を得ていたのです。
しかし、です。
支援した義元は、名門今川家の家督を継ぐと、氏綱の思いとは反対の方向へと舵を切ります。
北条と敵対していた武田氏との関係強化に乗り出したのです。
氏綱は「せっかく支援してやったのに、武田と結ぶとは何事か!」と激怒。
今度は、義元のいる駿河に向けて兵を送り、これまで連帯してきた両者は【河東一乱】という全面戦争へと突入していきます。
そして河東地域(富士川より東の駿河国)は、北条氏綱の手に落ちることとなるのです。
なお、義元の立場としては、駿河国主としての権威を確立するため、わざと武田と手を結び、北条の影響力を排除したかったのではないか?と指摘もされます。
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