関東の北条氏――戦国期の後北条氏と言えば「北条氏康」が代表的人物として挙げられるでしょう。
・武田信玄
・上杉謙信
・今川義元
といった名だたる戦国武将と幾度も名勝負を繰り広げ、ついに小田原を守りきり、関東を制覇したとして知られるからです。しかし……。
その栄誉は父の北条氏綱(うじつな)にも、もっと与えられるべきではないでしょうか。
父の北条早雲と、息子の北条氏康に挟まれ、地味で目立たぬ存在なれど。
小田原へ拠点を移し「北条」の名を関東に轟かせた。
本稿では、1541年8月10日(天文10年7月19日)に亡くなり、後世ではあまり語られることのない北条氏綱の関東覇権を振り返ってみたいと思います。

北条氏綱/wikipediaより引用
偉大なる宗瑞の子として生まれた北条氏綱
北条氏綱は、長享元年(1487年)に誕生。
父は「北条五代」の始祖であり、一世一代の下剋上を成し遂げたとして知られる北条早雲(伊勢宗瑞)です。
母は宗瑞の正室である小笠原政清の娘で、嫡男だった氏綱は、おおよそ文亀年間(1501~1504年)に元服を済ませていたと目されます。
彼の名乗った仮名は、父と同様に「新九郎」でした。
この名は、以後、北条家を継ぐ歴代当主たちに受け継がれていく伝統的なものになっています。
北条氏綱が史料に登場するのは意外と遅く、永正9年(1512年)に家臣の伊東氏に対し
「此度の戦は見事だった」
と戦功を褒めた感状に名前が登場しました。
この時点では父と連署しているため、まだ家督の継承は行われていませんが、すでに後継者として家中で重要な役割を担っていたことが理解できます。
もっとも、この年すでに57歳に差し掛かっていた父の早雲はまだまだ現役であり、彼が相模国の侵攻を本格化させたことで、ようやく氏綱の名前が登場してきたという流れです。

北条早雲(伊勢宗瑞)/wikipediaより引用
北条氏綱の名がなかなか史料に見えないのも、おそらくこのタフネス親父がいつまでも第一線で働いていたためでしょう。
さすが室町幕府の幕臣から大名への道筋を作った御方であります。
政治的判断で早雲は隠居へ
60歳を超えても現役バリバリで活動していた宗瑞。
やがて政情の変化により一線を退く時期がやってきました。
この引退は、扇谷上杉と小弓公方足利氏の微妙な関係が影響していると思われます。
早雲は、長年にわたって扇谷上杉氏と抗争しており、一方の小弓公方足利氏とは、協力関係にあると見なされておりました。
しかし、この扇谷上杉と小弓公方が協力関係になってしまい、その狭間に置かれた早雲が居心地の悪い存在となってしまったのです。
あるいは空気を読んで配慮したとも言えるでしょう。
早雲はやむなく「隠居」を決断し、相模方面の攻略で成果を上げていた北条氏綱が二代当主の座につきました。
関東の政治事情によってようやく家督を継承した氏綱。
上記の指摘が事実であれば宗瑞はまだまだ活躍する心づもりであったのかもしれません…。
いずれにせよ家督を継承した北条氏綱は、精力的に動いていきます。

北条氏綱関係地図/wikipediaより引用
まず「代替わりの改革」として、印判(はんこ)や本拠地の移動などを実施。
北条氏を象徴する
【虎の印判】
が出現しました。
四角形の中に
【禄寿応穏(ろくじゅおうおん・財産と命がまさに穏やかでありますように)】
という文を刻んだもので、その上部に虎が描かれたデザインです。
小田原移転で関東進出の基盤を固める
「虎の印判」は、北条氏が勢力を拡大していくにつれて「北条権力の象徴」と考えられるようになっていきました。
実に彼らが滅亡するまで使い続けられることになるのですが、単に精神的シンボルという存在だけでなく、政治的実行力も伴っていたのです……とは、どういうことか?
当時、関東では、終わりなき戦乱に伴って人心は荒れ、【郡代・代官】らが勝手に多くの税を徴収するということも頻発しておりました。
そこで、これを取り締まるため、
「虎印のない文書には一切応じる必要がない!」
と明言する役割を担ったのです。

虎の印判/横須賀市HPより引用(→link)
結果的に、この虎印は、家臣らの権利を制限することにもつながり、北条氏の統治機構強化へ繋がっていきます。
例えば代替わり後の北条氏綱は、宗瑞の意思を継いだ積極的軍事行動に出ており、前述の小弓公方足利氏を支援するため上総(千葉県)に渡海。
神奈川県から千葉県というと、陸路で結構な距離がある印象ですが、船であればかなり近いものです。
氏綱のこの行軍は、今後も「宗瑞と変わらないスタンスで活動していくぞ!」ということを対外的に示したと考えられます。
ただし彼は、対外進出で戦争を重ねるよりも、領国支配体制の強化を目指し、国力増強に努めていたフシが垣間見えます。
その最たる例が本拠地の小田原移転でしょう。
早雲の代では伊豆の韮山城を本拠としておりましたが、北条氏綱は小田原城に定め、関東制圧の拠点にしたのです。
これに伴い代替わり検地を行い、小田原周辺や鎌倉寺社領の税負担を明確に定め、支配者としての地位を確立していくのでした。
桓武平氏の流れを汲む伊勢氏
代替わりの政策がひと段落した大永3年(1523年)。
氏綱は自分の名字を「伊勢」から「北条」へと改めました。
「えっ、そもそも氏綱は北条氏じゃないの?」
そう思われるかもしれませんが、これまで父の宗瑞がそうであったように「伊勢」という旧来の名字を名乗り続けていたのです。
原稿上でも、便宜的に「北条氏」の名前を使っておりましたが、正確にはこの大永3年以降をもって「北条氏」の歴史がスタートします。
では、なぜ先祖代々の名を捨て「北条」を名乗ったのか?
誤解のないように言っておくと、「伊勢」という名字も桓武平氏の流れをくむ由緒正しいものであり、決して格は低くありません。

桓武平氏の祖とされる葛原親王/wikipediaより引用
それでも改称を決断した理由には、対抗勢力である扇谷上杉氏との立場的な違いによる「強烈なコンプレックス」が隠されていました。
まず、当時の扇谷上杉氏は、正式に相模国の守護であることを認められた家柄であり、対外的にも「相模国主」としての格式を有していました。
一方、小田原に移転してきた伊勢氏は、勢力こそ秀でていたものの、土着の勢力からしてみればあくまで「他国の逆徒」、つまり「いけ好かないよそ者」に過ぎなかったのです。
北条氏綱はこの現状を変えるべく、【実質的な面】と【名目的な面】からアプローチをかけます。
「よそ者・伊勢氏」から「相模の支配者・北条氏」へ
実質的とは、相模を中心とした領国支配の確立です。
前述の虎印を用いた政治力・軍事力を背景に支配者としての存在感を見せつけ、「もはや彼らが相模の支配者でいいのかも…」と思わせることを狙いました。
もうひとつの名目的なアプローチが「伊勢から北条への改姓」です。
ここでいう「北条」とは、言うまでもなく鎌倉時代に執権として将軍を補佐した北条氏を指します。
源頼朝の妻・北条政子。
その父・北条時政。
そして、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で一躍“時の人”となった北条義時。

北条義時イメージ(絵・小久ヒロ)
言うまでもなく彼らの影響力や拠点は既に滅亡しています。しかし“北条”という名前やブランドイメージは決して軽視はできないはず。
そこで北条氏綱は、前時代の正当支配者を名乗ることで「我々はよそ者ではなくあの北条氏の後継者である!」という名目に変え、自分たちの正当性を証明しようとしたのです。
言い換えれば、正当な後継者ではないから、名前だけでも強引に変えた!ということなんですけどね。
名乗ったもん勝ちということでえしょう。
一応、宗瑞の母方に「遠縁がある」とする史料も残されていますが、これは後世の創作である可能性が高い。
歴史を語る上で「北条氏」と「後北条氏(早雲や氏綱たち)」という区別がなされるのはこのあたりに理由があります。
「なんと紛らわしいことを…!」と眉をひそめる方もおられるかもしれません。
それでもここで北条姓を名乗り、関東の勢力として地盤を築いたことにより、
【戦国大名・北条氏が誕生した】
という見方もあるほどです。
山内&扇谷上杉氏との抗争 江戸城を獲る!
領国支配の体制を盤石なものとした北条氏綱は、大永4年(1524年)ごろから扇谷上杉氏・山内上杉氏の攻略に着手します。
もともと北条氏と扇谷上杉氏とは暫定的な同盟関係にありましたが、おそらく「相模の支配者」を大々的に名乗ったことで敵対関係となったのでしょう。
氏綱は、武蔵国・相模国の国衆を服従させながら攻略を進めていきました。
一方、これに危機感を覚えたのが扇谷上杉の当主・上杉朝興(ともおき)です。

北条氏綱と関東の各勢力/photo by 野島崎沖 wikipediaより引用
朝興は、長年敵対していた山内上杉の当主・上杉憲房に和解を申し入れ、扇谷上杉氏と山内上杉氏は協力関係を構築。
さらに彼らは、北条と敵対関係にあった甲斐の武田信虎との結びつきも図り「北条包囲網」を結成しようとしました。
武田信玄の最初の妻が、上杉朝興の娘であるのもこうした背景があったんですね。

武田信虎(左)と息子の武田信玄/wikipediaより引用
しかし、これを黙って見ている氏綱ではありません。
山内上杉氏との講和に向け、江戸城から河越城へと移動していた上杉朝興の隙を突く形で江戸城へ攻め込み、留守役を任されていた太田資高を内応させて同城を攻略するのです。
江戸城は、もちろん徳川家康の建てた江戸城とは違います。
それでも当時は関東の流通を担う重要な拠点であり、北条氏綱がここを所有したことは非常にショッキングな出来事でした。
彼はここを拠点として武蔵国北部や下総への進出もできるようになり、以後、この地に「江戸衆」を配置して管理にあたらせたのです。
氏綱の快進撃は止まりません。
江戸を拠点に入間川(現在の荒川)を越え、山内上杉氏だけでなく古河公方の城も次々と落としていきました。
朝興も河越城から戦線を後退せざるを得なくなり、北条の関東制覇はもはや目前……。
という段階になって上杉朝興の外交努力が実を結びます。
上杉憲房や武田信虎の協力を得て反攻に転じ、河越城を取り戻すと、次々に勢力圏を回復していくのです。
氏綱も、上杉氏の本国である越後の協力を得て、関東上杉氏と対立させるなど、背後を脅かす外交努力もするのですが、それを上回る朝興の外交手腕によって北条氏は完全に孤立。
関東で「北条包囲網」が形成されてしまいます。
以後、朝興方との戦では常に劣勢を強いられるようになり、里見氏らの参戦もあって敵地攻略どころか鎌倉や玉縄城を攻められるという始末でした。
防戦一方の北条勢。
早雲以来続いた躍進も「ついにここまでか」と思われました。
小弓公方家が内部分裂! 形勢逆転へ
窮地に追い込まれた北条氏綱に対し、救いの手となったのが武家恒例のトラブル――「お家騒動」でした。
関東諸勢力の連帯によって形成されていた北条包囲網。
その一角であった小弓公方家が内乱を始め、さらには千葉の里見氏も分裂してしまい、当主の里見義豊と庶家出身の里見義堯が抗争を引き起こします。
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チャンス!とばかりに氏綱は義堯を支援します。
一方、上杉朝興が義豊サイドにつき、北条vs上杉の代理戦争という様相も帯びてきて、結果は北条サイド・里見義堯の勝利に終わります。
義堯が当主となった里見家は、当然ながら北条包囲網を離脱します。
上杉朝興方にとっては大幅な戦力ダウン。
それだけでなく里見氏同様、氏綱に敵対していた真里谷武田氏でも内乱が発生し、当主の真里谷信隆とその叔父・真里谷信秋が対立しました。
北条氏綱はここにも介入し、信隆を支援することで、今度は小弓公方・足利義明が支援した信秋と、再び代理戦争を引き起こします。
頻発するお家騒動を見ていると、関東の戦乱に終わりがないのもご納得でしょう。
氏綱にとっては残念ながら、真里谷武田氏の内乱は、敵方の信秋が勝利してしまうのですが、いずれにせよ北条包囲網を形成していた戦力の大幅ダウンは、上杉朝興・足利義明にとって大ダメージです。
何度も緒戦に介入した北条氏綱としては『してやったり……』といった心境だったはず。
このころから北条氏は再び敵地奥深くまで進撃できるようになり、一気に勢力を盛り返していくのです。
花倉の乱では栴岳承芳の味方になるも……
もともと周辺に敵を多く抱えていた北条氏。
その中でも西方の今川氏とだけは協力関係を構築できておりました。
しかし、天文5年(1536年)、今川家の当主・今川氏輝とその弟が同時に亡くなってしまい、後継者をめぐって【花蔵の乱(花倉の乱)】が勃発してしまいます。
対立したのは以下の二人。
栴岳承芳
vs
玄広恵探
両者共に今川氏親の息子でありながら僧名だったのは、当初は「後継者になる見込みがない」と思われていたためです。
勝ったのは、栴岳承芳こと今川義元。
「海道一の弓取り」と呼ばれ、後に【桶狭間の戦い】で織田信長に討ち取られるあの義元です。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用
義元が花倉の乱に勝てたのは、側近であった太原雪斎の働きが大きいとされますが、実は北条氏綱も全面的に支援しており、北条という強力な後ろ盾を得ていたのです。
しかし、です。
支援した義元は、名門今川家の家督を継ぐと、氏綱の思いとは反対の方向へと舵を切ります。
北条と敵対していた武田氏との関係強化に乗り出したのです。
氏綱は「せっかく支援してやったのに、武田と結ぶとは何事か!」と激怒。
今度は、義元のいる駿河に向けて兵を送り、これまで連帯してきた両者は【河東一乱】という全面戦争へと突入していきます。
そして河東地域(富士川より東の駿河国)は、北条氏綱の手に落ちることとなるのです。
なお、義元の立場としては、駿河国主としての権威を確立するため、わざと武田と手を結び、北条の影響力を排除したかったのではないか?と指摘もされます。
河越城を落とし打倒扇谷の悲願を達成する
今川の反抗を抑え込んだ北条氏綱は、並行して扇谷上杉氏の攻略を進めていました。
この時期の扇谷上杉氏は、すでに上杉朝興は亡くなっており、跡を継いだ上杉朝定はまだまだ若年でした。
当主の変わり目を狙ったのでしょう。北条勢は、河越城近くの三木まで兵を進めます。
進撃してきた氏綱を迎え撃ったのは、朝定の叔父である上杉朝成。
北条氏綱はこの合戦で見事に勝利を挙げ、朝定は河越城の領有は困難だと判断して、近隣の武蔵松山城へと逃亡しました。
北条氏にとっては画期的な一戦でした。
なぜなら河越城は【享徳の乱】以降、関東で勢力を維持してきた宿敵・扇谷上杉氏の本拠地だったからです。

『江戸図屏風』にある川越城(河越城)/wikipediaより引用
周囲に扇谷上杉氏の衰退を見せつけ、同時に北条氏の実力をアピールするのに格好の拠点でした。
勢いはまだまだ続きます。
翌年には、武蔵国東部の重要拠点だった葛西城を攻略し、父・宗瑞(早雲)の代から悲願であった「扇谷上杉氏の打倒」をほぼほぼ成し遂げたのです。
河越城を領有したことで下総地域へ進出できるようになった北条氏綱は、なおも手綱を締めません。
続いて古河公方と小弓公方の対立に介入。
古河公方・足利晴氏から「小弓公方・足利義明を打倒せよ」という大義名分を得ると、義明がいた国府台の地へ向かうのです。
いわゆる【第一次国府台合戦】と呼ばれるもので、氏綱は、敵の足利義明や、その嫡男、弟などを討ち取る大勝利を収めます。
主君のみならず縁者を次々と失った小弓公方足利氏は滅び、北条氏は絶大な権威を獲得することになります。
こうして周辺勢力を実力で打倒していった北条氏は、いつしか関東最大の大名に成長していました。
もはや軍事力で彼らを討ち果たせる勢力は存在しません。
それでも北条氏綱は、まだまだ歩みを止めませんでした。
関東管領と鶴岡八幡宮で格式も手にする
関東最大の大名に成長した北条氏。
その実力に呼応する形で権威を獲得していきます。
まず、小弓公方足利氏を滅ぼしたことで古河公方の後ろ盾となっていた北条氏綱は、晴氏より最高級の名誉職と化していた「関東管領」に任命されました。
この時点で関東管領は山内上杉氏の上杉憲政が務めていたので、「二人の関東管領が存在する」という先例のない事態を迎えます。
常識からしてありえない。
しかし、関東管領という地位は公認されていき、北条氏は代々「管領家」を名乗ります。
さらに氏綱は、娘を晴氏の正室とすることで古河公方足利氏と外戚関係も築き、北条氏はなんと
【足利将軍家の御一家】
という地位まで獲得するのです。
これは関東足利氏の中でも最も格式高い身分に相当し、古河公方足利氏に次ぐものと考えられました。
相模入国直後は「いけ好かないよそ者」として蔑まれていた伊勢氏。
彼らが「北条」の姓を名乗った頃には「お前らが北条氏?冗談もほどほどにしてくれよ…」と笑われていたことでしょう。
しかし、実力をもってそうした声をかき消していった北条氏綱が関東管領に就任するころになると、もはやこれを妨害できる勢力は存在しなくなっていました。
ここまで見てきた氏綱の権力は、天文9年(1540年)の鶴岡八幡宮修造事業をもって対外的に示されることになります。

源頼朝以来「東国のシンボル」として知られていたこの寺をほぼ独力で造営し、彼らこそが相模の支配者――ひいては東国を代表する勢力である!と象徴されたのです。
支城制の導入や積極的な人材登用
後北条氏と言えば、従来は、北条氏康にスポットが当てられがちでした。
というのも氏康は、河越城の戦い(河越夜戦)で数倍の大軍に撃ち勝ち、武田信玄や今川義元とは【甲相駿三国同盟】を成立。

今川義元(左)と武田信玄/wikipediaより引用
さらには上杉謙信ともバチバチにやりあい、戦国ファンの心を熱くさせてきました。
しかし、こうして見ていると、氏綱の時代に関東覇権の基礎ができたことがご理解いただけるでしょう。
北条氏綱は【支城制の採用】という強固なシステムも確立させたのです。
関東の大半を手中に収めていた北条氏は、その急速な発展に伴う領国支配のあり方を抜本から見直さなければなりませんでした。
そこで氏綱は、郡や領という単位で支配の拠点となる城を設け、ここを「支城」と呼称して、担当者にその地域の支配や軍事動員を行わせました。
支城を任された人物は一門や重臣クラスの家臣たちであり、若手を含めて積極的な人事登用を図ることで一族全体を強化したのです。
特に玉縄城を任された玉縄北条氏の活躍は目まぐるしく、領国支配の要として成長しました。
「勝って兜の緒を締めよ」
かように軍事面・内政面での支配を固めていく北条氏綱でしたが、天文10年(1541年)頃から体調を崩すようになります。
この頃にはまだ頼りない次期君主と見なされていた氏康に対し「五箇条の覚書」を与えました。

北条氏康/wikipediaより引用
内容を要約してまとめますと……。
一、義理を重んじること
二、家臣から百姓までに気を遣い、適材適所で用いること
三、家臣はおごらずへつらわず、分相応の振る舞いをしているのがよい
四、倹約を心がけること
五、勝って兜の緒を締めよ
今も名言として知られる
「勝って兜の緒を締めよ」
は氏綱の言葉だったんですね。
上記の覚書を残してから数か月後。
北条氏綱は55歳の生涯を終えました。
父の宗瑞や息子の氏康に比べて地味な存在かと思われがちですが、血生臭い戦場を生き抜いた「理想的な二代目」は、後北条氏を誰もが認める「北条家」へと確立させたのです。
以下に関東での覇権を確立した息子・北条氏康の人物伝がございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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【参考文献】
『国史大辞典』
黒田基樹『戦国北条家一族事典(戎光祥出版)』(→amazon)
黒田基樹『戦国北条五代(星海社)』(→amazon)






